はじめまして。神戸市在住の古田と申します。

 The Ruins of Rail-廃線跡を旅する のページを拝見しておりまして、山陽電鉄兵庫から東須磨までの間の廃線跡のレポートを冬広 明さまが書かれていますが、この中で「西代〜東須磨間の付け替え時期などがわからない」との記述がございましたので、この件に関する補足をさせていただきたいと思います。なお、私が生まれたのは昭和49年、最近まで山陽電鉄は西代から地下にもぐるのが当たり前でしたので、西代〜兵庫間についてはわかりません。

 西代から東須磨までの路線の地下化工事は、それこそ私が物心ついたころから行われており、なぜ20年もかかったかと言うと、高速道路の工事と並行して行われたこと(先月開業)と同時に、地下水が出たためだそうです。これは西代駅の線路の下に、何本かの水路が引かれていることからもうかがえます。
 そして、その西代〜東須磨間の地下路線は、1995年の4月、大々的に開業するはずでした。…しかしその3ヶ月前、何が起こったか…あまり思い出したくないのですが。

 震災直後、神戸市内の鉄道網は全てマヒしました。都心に近いところでは、翌日だったか翌々日、地下鉄の板宿駅より西側が開通。しかし神戸高速・山陽電鉄関係では、大開駅が大きく陥没したことにより、新開地〜高速長田間の復旧まで半年、大開駅の復旧までさらに1年以上の長い時間を要してしまったのです(その1年間、全ての電車が大開を通過)。
 一方、東須磨駅より西、塩屋付近までの線路にはダメージが少なく、須磨浦公園〜西代間は、たしか3月ごろに復旧していました。
 しかし、板宿駅や西代駅の、以前の地上線路・ホームには、95年1月16日以降、二度と電車が走ることはありませんでした。つまり、すでに完成し、4月になったら大々的なセレモニーとともにデビューするはずだった地下新線は、震災後の自粛ムードもあってか、人知れずひっそりと開通したのであります。
 つまり、地上線から地下線への切り替えは、震災で鉄道がマヒしている間に、いつの間にか行われたわけです。

 そして、震災で壊滅した街には、仮設住宅を早急に建設する必要がありました。そのため、廃線跡は数日のうちにあっという間に撤去され、気がつけば仮設住宅に、そして数年の後、これまたあっという間に道路に変身したというわけです。その変遷の早さは、地元に住む私たちも戸惑うほどです。そして冬広さまが書かれているとおり、今ではそこに地上線路があったという痕跡もまったく残っていません。板宿駅南側にあった細い細い路地も、いつの間にやら広い幹線道路の歩道として生まれ変わっています。

 余談ながら、いまでも西代駅は山陽電鉄の神戸側の起点、のはずですが、特急電車は通過しますし、ホームの電灯も半分は消してあるという省エネというか場末の駅。これでも地上に出れば山陽電鉄の本社があるのですが…。(証拠:http://www.sanyo-railway.co.jp/ で会社概要をご覧ください。長田区御屋敷通というのが、西代駅の所在地です)
 さらに、西代駅を境として山陽電鉄と神戸高速鉄道が分かれます。当然、別々に料金を取られます。
 つまり、板宿駅から神戸・三宮・阪神梅田方面へ行く特急電車に乗って、西代駅を通過して、次に停まった高速長田駅で降りますと、20円の割引があるとはいえ、なんと250円。この間、電車に乗っている時間は、3分ぐらいなんですけどね…。2003年11月号の鉄道ジャーナルには、苦戦する山陽・神戸高速の特集記事があります。

 以上、長々と書いてまいりましたが、ご参考にしていただければ幸いです。