現在の在来線の関ヶ原越えは,1900年(明治33年)に開通した.また今回とは関係がないが,関ヶ原以東で特急や貨物が通っている下り専用線は1944年(昭和19年)に新設された.その下り線は,今は無い新垂井駅経由の緩い登り勾配で,戦時下での物資の輸送を増強する為であった.

 それまでの軌道の変遷は複雑である.

 まず神戸から京都を経て稲荷・逢坂山トンネル経由で大津まで(1880年)来ていた線路が,汽船で湖上を長浜まで連絡し,長浜からは1883年(明治16年)に関ヶ原まで,今の県道37とR365辺りのルートで線路が延長された.長浜は日本海沿岸の敦賀からの中継地として重要であり,柳ヶ瀬トンネルの開通(1884年)で鉄道による物資の輸送ルートが曲がりなりにも出来たわけである.

 その後,1889年(明治22年)に湖東線が出来て,大津から米原を経て長浜までの線路と,米原から近江長岡を経て,今の近江長岡駅から東北方向に延びる県道を通ってR365にある大野木の交差点(深谷(ふかだに)操車場)に至るルートが出来た.せっかく1883年に開通した長浜から関ヶ原への直通ルートは僅か6年で路線が変更されてしまったわけである.

 同じ1889年には神戸から新橋までの東海道線が全通している.ただし東山トンネルや丹那トンネルはまだ無くてルートは現在とは異なっている.また1900年には,初めに触れた柏原経由の現在線が出来たので,関ヶ原〜長浜・近江長岡は幹線ながら短命であった.

 02年の暮れと03年の早春に旧線の廃線歩きをした.本来ならば開通した順に歩くのが筋なのだが,距離等の都合で関ヶ原からR365経由で近江長岡までを1回目に,大野木の分岐から長浜までを2回目とした.



 1回目,大変良い天気で,京都からの車窓が楽しめた.湖上連絡にとって替わった湖東線だが,今は通称が琵琶湖線である.近江八幡くらいから積雪があった.比叡山・近江富士・比良山系,それと7合目位まで雪がある伊吹山の眺めがよい.霊仙山は逆光なので良く分からないが雪は見えた.ちなみに霊仙山は鮫ヶ井駅付近から南に開けた谷の向こうに見えるが,そんなに知られていないだろう.

 柏原駅から関ヶ原駅の間にはトンネルがあるが,長らくそこが滋賀県と岐阜県の県境だと思っていた.大分経って,トンネルよりもっと西が県境であることが分かった.しかしそこは,何の変哲もない登り坂の途中である.南に並行する道路の標識で県境であることが分かる.

 関ヶ原駅で下車する.駅を出ると県道236が出来ている.これまで車窓から工事の進展を見てきたが実際歩くのは初めてである.以前は駅から西へ線路の南側の歩道を通ってから車道に出て跨線橋を渡れば東首塚であった.その道は中山道と北国街道を短絡する北国脇往還であるが,今日は新しい県道で線路を北へ渡る.跨線橋の上から駅を見れば軌道は東から西へとやや南にカーブしていることがわかる.長いホームもそうなっている.

 新しい跨線橋を渡ればすぐ西が東首塚になる.線路の北側に立ち,旧軌道を推定した.軌道は800mくらい北に行くとR365そのものになっているので関ヶ原駅の東側から滑らかに延びていたはずの軌道跡を考えた.今の関ヶ原駅は部分的に切り取って駅が設けられているが,元の軌道はそれよりやや北側を西へ向かって登り勾配で,駅の北側の工場敷地にかかったあたりに軌道面があり,登りながら北へカーブしていたらしい.跨線橋より北は,現在工事中の県道がほとんどそのまま軌道跡であると推定できる.

 東首塚の西側の北国脇往還を北へ歩く.登り坂である.雪が10cm位ありちょっと歩きずらい.関ヶ原町歴史民俗資料館とその北に徳川家康の最後陣地がある.資料館は今日は入らない.天下分け目の戦いの経緯が繰り返しジオラマ等で解説されているのだが,西軍が負けるのは初めから分かっている.あまり面白いものではない.

 資料館の南に工事中の県道の北の端がある.ちょうど福祉センターの西側にあたる.たぶんその辺りに軌道があったと思われた.狭い北国脇往還を北に歩くが,県道の工事で近い将来雰囲気が変わるであろう.R365が西から合流する.ただし真っ直ぐなのは今来た道でR365はその部分で曲がっているのが分かる.軌道は真っ直ぐの登り坂で,軌道跡そのもののR365の廃線歩きに入る.

 車が多くトラックも多い.今でも国道の通称は北国街道で幹線である.

 R365の歩道を歩く.車がひっきりなしで愉快ではないが仕方がない.国道はかなりの登り坂であり,汽車にとっては非常にきつい登り坂であったと推定できた.地図上では勾配は上手く読めないが実際に歩いてみると事情が良く分かった.カーブでの線型も地図ではうまく判読できないので,やはり実際に歩く必要がある.

 やや行くと”右250m,石田三成陣跡”とある.笹尾山であるが上記の家康最後の陣地と1kmも離れていない.家康が来たのは石田勢が蹴散らされた後であろう.しかし今日は戦場巡りではない.ただ,線路跡も戦場跡も同じ”跡”ではある.

 国道は長い直線の登り坂の先でゆったりと左カーブするがなお登り坂は続く.峠を越えるために軌道も勾配を一定に作ったのが良く理解できた.

 バス停「小関」を過ぎ,片側2車線だけ開通しているR21バイパスをくぐる.左は関ヶ原ウォーランドになる.行ったことはないが大して興味を引かない.勾配はやや緩やかになり,左から先ほどのバイパスが合流する.交差点を右へ行けば伊吹山ドライブウェイである.道路標識では,直進で長浜19Kとある.

 軌道はゆったりと右カーブし,勾配はまたきつくなる.カーブの途中に斜面を切り取った部分があり,歩道は東側だけになる.カーブが終わるとやや低い所を通過するので軌道面は土盛りとなる.

 正面に伊吹山が頭だけが見えている.軌道はほぼ一定勾配を保って高度を上げてきた.崖にまた切り取りがあった.雪かきをしていた方に昔の鉄道の事を伺えば,切り取った土は下の玉集落の整地に使われたそうである.

 「玉」バス停を過ぎる.右の崖の上には玉神社がある.左カーブしてから県境を目指す.ずっと登りである.トラックが頻繁なのに歩道がないので危ない.しかも路肩は雪である.もっとも歩いている人は他にはいない.

 一旦フラットになり左から広域農道が合する.道路標識では,長浜18Kとある.すぐに関ヶ原町から滋賀県伊吹町になる.県境を越えた.しかし県境であるがそこは峠ではなくさらに登り坂は続いていた.

 軌道の西の谷には藤古川が南に向かって流れていて,県境を越えてもその事情は変わらない.伊吹山の東の岐阜県側は,当然揖斐川水系で伊勢湾に注ぐ訳であるが,県境にある伊吹山ドライブウェイを挟んだ南や西では川は琵琶湖に注ぐと何となく考えていた.つまり淀川水系である.しかし地図を見れば,伊吹山の南面が源流の藤古川は揖斐川支流であり県境が分水嶺ではない事が分かった.

 「藤川」信号に着いた.右は「浅井」に至ると標識にある.読みは,あざい,と読み戦国武将の正式な名前の地名が登場した.付近は国道なのに歩道が無くて危ない.バスはここから北の山麓の道へ入る.機会があれば,北へすぐの藤川宿から春照宿まで,さらに木ノ本宿まで北国街道の脇往還を歩いてみたい.

 上り坂は一旦緩くなり広い河原となる.振り向くと県境は川筋が両側からの山で狭まっている場所に過ぎないことが分かった.R365は細かく左右にカーブし緩やかに登るが,その先大きく右カーブしてきつい登りとなる.

 信号「藤川西」に着いた.交差点にドライバー用の温度計があるが壊れていた.山間部ゆえ氷点下かもしれない.伊吹山がきれいに見通せた.

 ここで一気にきつい下り坂となる.峠を越えた.ここからの水は琵琶湖を経て大阪湾に注ぐはずである.

 軌道は左右にカーブするが,これは地形の関係もあろうが勾配の緩和の為もある思われた.国道なのに歩道が無いのでこわい.ややあって直線の真っ直ぐな下り坂となる.勾配は汽車にとってはいかにも急坂で,現在線に付け替えられた理由が理解できた.

 坂の途中で伊吹町から山東町に入る.地図では旧軌道の長浜へと近江長岡の分岐の大野木は近い.ずっと遠い先に見える左カーブの先あたりと思われる.

 下り坂の途中には,地形の関係で土盛りになっている部分もあった.車は頻繁なのだが比較的固まって通過する.車の流れが止んだ時,ちょっとした静寂が訪れる場面も数回あった.その時だけはいい気分で,廃線歩きの気分,が味わえた.

 長い直線の下り坂の後,ようやく緩やかな左カーブになる.その地点は長い土盛り区間で人家も見えてきて里の感じになった.勾配は緩くなるが下り坂に変わりはない.

 大野木交差点に着いた.深谷操車場があった場所で,藤川峠越え用の機関車が常備されていた場所であるが,今は連れ込みホテルが建っている.R365は右カーブして緩い下り坂で,近江長岡への県道244も右カーブだが,カーブは浅く,下り勾配は国道よりややきつくなっていた.

 本来は,最初に出来た長浜方面へ進むべきだが,距離等の関係で今日は近江長岡へ向かう.

 車が少なくなってほっとする.道はセンターラインの無い狭い道である.軌道跡にふさわしい.そういえば関ヶ原から歩いてきて,軌道跡の雰囲気を感じたのは初めてであった.土盛り部分もしっかりと造られていた.

 道は先が見通せないくらいの真っ直ぐな下り坂である.伊吹山が近く,全容を見せている.長い直線の一定勾配の下り坂の後,ゆったりと左カーブして「村木」交差点に至った.すぐ手前から再び伊吹町に入っている.

 実は,3年位前にバスで近江長岡駅から村木まで来たことがある.その時は交差点で北に折れ伊吹山登山口方面へ向かったが,廃線跡という事は後で気がついた.当時は関ヶ原から大野木を経て春照駅跡から長浜方面の廃線跡があるという方に気を取られて,近江長岡駅からの中間段階の線路の事はおろそかだった.

 村木交差点からセンターラインのある新しくて広い道になり車も多くなった.道はゆったりとした左カーブの緩やかな下りで,左後ろから新幹線の高架が近づいてきた.新幹線の高架は部分的には土盛りで,やや時代を感じさせる.除雪のためにスプリンクラーが稼働中であった.新幹線の列車はひっきりなしでせわしない.

 新幹線の高架をくぐる.新幹線はそこから西へすぐ小さな山をトンネルで抜けていて,並行する在来線の車窓からいつも気になっていた.私見では,新幹線は近くから見ればわざわざ山の方を選んで進み,トンネルに入るという印象がある.もちろん線路を真っ直ぐに引くために少々の山はそのまま迂回せずにトンネルが掘られる訳で,地図を見ればすぐに理解できるのだが,ここはその典型である.

 3年前位に来たときは,まだセメント工場への貨物線の線路や踏切が残っていたが,軌道跡の道路整備のせいか,土盛りと電柱はあったがレールは撤去されていた.時代を無視して云うと,旧東海道線と貨物線の線路は平面交差していることになる.

 軌道跡は直線になり再び山東町に入る.行政区画が入り組んでいるのが地図で分かる.新幹線に並行する在来線が左から近づいてくる.ここは在来線の車窓から新幹線の列車が高速で走るのをよく見かける場所である.

 何年か前に,ここの在来線の車窓から面白いものを見た.積雪が50cm位あった時で,乗った在来線はスピードを落とさずに米原方面へ下って行くのだが,たまたまその並行区間で下りの新幹線が雪で徐行していて,追い抜いた事があった.大変,愉快であった.その日は大垣駅から垂井駅を経て関ヶ原駅までの下り区間が雪で不通で,普通電車や快速も,特急や貨物しか通らない(旧)新垂井駅経由であったので良く覚えている.

 余計なことを書いた.

 柏原駅方面から下ってきた在来線は南寄りに大きくカーブするが旧線は真っ直ぐで,結果,県道と現線は自然に合流する.近江長岡駅のホームが見えてくる.伊吹山が絶景であり,在来線の車窓から見えるように”伊吹山1377m”の標識もある.

 県道と在来線は伊吹山麓のセメント工場への引き込み線の跡を挟むようになるが,その間に鉄の桁があった.まさか旧線の遺構では無かろう.貨物線の軌道が敷かれた時期があるので旧東海道線の跡は全く判別できなくなっていた.

 0(ゼロ)のキロポストがあったがそれは貨物の引き込み線の物であろう.何時しか県道は軌道跡でなくなっていた.

 3時間歩いて近江長岡駅に到着した.駅舎の壁には伊吹山石灰岩らしい石のブロックが積まれていた.



 2回目,近江長岡駅で電車を降りバスに乗った.実は柏原駅から北に歩いて大野木の分岐まで行き長浜方面に歩こうかとも思ったのだが距離が長いし,国道歩きは余りしたくない.だから1回目に調べておいた伊吹山登山口行きのバスを利用した.

 1回目に歩いたルートをバスから見て,「村木」バス停で左折し,程なく「高番」に着いた.R365の交差点にあるバス停である.大野木方面を見てもカーブしていて見通せなかった.地図では1回緩やかに左カーブして直進後,大野木の交差点付近のカーブに至ることが解る.本来は分岐の大野木まで戻るべきではあるが省略して長浜方面へ歩く.

 3年くらい前に,同じ路線のバスで来た伊吹山文化資料館への道路標識があり,そちらへ向かう.今回は主に廃線関係の資料を主に調べたかったからである.実は春照駅跡はすぐ先なのだが,春照宿跡というか今の伊吹町の中枢部に寄ってから駅跡に向かいたかったのでそうした.

 資料館で北国脇往還の資料や伊吹山等の岩石サンプルをまた見てから鉄道関係の資料を見た.長浜から関ヶ原間の軌道の工事は難工事で,明治16年5月にやっと完成・開通した事などが分かった.既に記したが脇往還をいつか歩きたいと思ったのもここでの資料によってである.

 汽車の時刻表があった.年月の表記は無かったが春照経由はわずか6年間なので事情はほぼ一定であったと想像できる.駅は,
長浜・・春照・・関ヶ原・・垂井・・大垣・・加納,
だが漢字は旧字である.

 加納は,今の岐阜駅の南一帯の地名で加納城というのもあるので岐阜市街の中心駅なのは分かるが,今の岐阜駅の位置に正確にあったかどうかは分からない.

 日に3往復の汽車があり,長浜から加納まで2時間15〜20分かかっていたことが分かる.新幹線の米原〜岐阜羽島の15分は論外として,米原乗り換えの普通電車の長浜〜岐阜は1時間余りである.今の所要時間に比べて,明治初期の所要時間が長いか短いかはちょっと判断出来ない.駅間毎の平均速度も考えた.ほとんど平地の長浜〜春照は,480m/分で,勾配のある春照〜関ヶ原〜垂井は,310〜400m/分であるが,時刻は発時刻で着時刻が無く,坂道用の機関車の付け替え等が考えられるのではっきりとしたことは分からなかった.

 また賃金表というのもあった.呼び方が運賃表でないのが面白い.全部の組み合わせは写さなかったが,長浜駅からの,中等/下等(銭),を書くと,

春照=23/12,関ヶ原=44/22,垂井=52/27,大垣=68/34,加納=95/48銭,
であった.もちろん縦書きで,漢字の数字で書かれていた.

 実は3年前の資料館の訪問の時に,”馬車道物語”というのをコピーさせてもらっていた.97年9月から99年7月まで14回にわたって,「長浜商工会議所会報」に片桐正二郎さんという方が書かれたものである.馬車道とは,長浜からの線路が廃線になった後で軌道跡を馬車で人間を運んだ道を指し,連載の冒頭に,”馬車道と聞かれても答えられない若者が多くなった”,とあり年輩の方には周知のことであることが窺える.

 乗合馬車は汽車の廃止後,上坂(こうざか)と長浜の間で運行されていたが,自動車の普及で廃れてしまったそうである.連載では,汽車時代の詳細な記載もあって大変参考になった.

 いくつか記すと,

 1883年5月,長浜〜関ヶ原(23km)開業.中間駅は春照のみ.使用された軌条は30フィート,1ヤードの重量は61.5ポンドで以後官設の鉄道軌条の標準となった.
 1890年12月,深谷貨物停車場できる.但し1888年11月に分岐の為の操車場は出来ていたのが資料館で分かった.
 1890年1月,長浜から深谷間を貨物線として復活供用.
 1899年12月,長浜〜深谷・関ヶ原〜長岡間すべて廃止.
 1901年12月,国から滋賀県へ軌道跡の一部が譲渡され馬車道誕生.
 また1885年3〜12月までの僅かの間,長浜〜春照間に上坂駅設置.
とか詳しい.

 今日はその内容も踏まえて歩くつもりである.

 資料館を後にして脇往還の春照宿跡に行った.少し北に歩くと宿場の南の端の常夜灯に着いた.関ヶ原からの脇往還は右手から延びてきて,そこで北に直角に曲がり宿場の中に入る.本陣跡には解説の看板があった.ますます脇往還が歩きたくなった.

 常夜灯のある場所に戻る.そこの伊吹町商工会館の角からR365に対して狭いが真っ直ぐな道がある.その道は,”ステンショ道”と今でも呼ばれていて,春照の集落から春照駅へのアクセス道路であった.

 ちょっと緊張して春照駅跡へ歩く.”春照”は古くは”すんじょ”とか呼ばれ,今でも”しゅんじょう”や”しゅんじょ”とも地元では呼ばれている.正式な駅の呼び名は,”すいじょう”なのだろうが,読みや呼び方が複数あるのは珍しくない.

 春照駅への道は真っ直ぐな下り坂であり,車が見えるR365の駅跡まで500m以上ある感じであった.途中,振り向くと伊吹山が正面に見えた.

 春照駅跡には無論,何も鉄道遺物は無いが解説看板位はあってもいいと少し思ったが,脇見運転の原因にもなりそうである.それこそ最近よくある,”道の駅”としてでも整備すれば良いかもしれない.

 地図では南東の「杉沢」付近から北西の「村居田」まで5〜6kmも国道,すなわち軌道は一直線の平坦な道である.見渡す限りそうであり,むしろ遠くの信号の明かりで道が真っ直ぐなことが分かるほどである.

 実は,長浜まではかなり遠くて,村居田までバスがあれば乗ってしまおうと思っていた.だが,途中で時刻を調べておいたバスは少なくて利用できなかった.

 仕方なく,てくてくと国道を歩く.やはり歩道が無い.右手に伊吹山がずっと遮ることなく見えるのが救いであった.考えれば汽車の車窓からも同様であったはずで,名前の付く絶景,に挙げられてもいいと思われた.もちろん,今の北陸線からも伊吹山は良く見えるが,地図では距離が倍以上あり,実際に体験しても今の車窓からの眺めは迫力に欠けている.

 伊吹山で気を紛らわせながら歩くが,どうしても車のせいで早歩きになってしまう.地図で現在地を見ながら歩いていくとようやく,村居田の先の山裾が近づいてきた.姉川が狭まった地形を流れている場所であり,山東町と長浜市を隔てる臥龍山の尾根の北の端の龍ヶ鼻(たつがはな)を迂回するために深谷から長浜駅へ直線的に線路が引けなかったことが解る.

 南北に延びる臥龍山の尾根は長く,今では県道も2本トンネルで横断している.また新幹線は横山トンネルで自然な線型を得ているのが時代を感じさせた.

 てくてく春照から国道を1時間くらい歩いて,ようやく軌道跡に変化のある場所になった.

 軌道跡はまずゆったりと右にカーブし,やや登り坂で姉川の際の崖の方向を向く.少し真っ直ぐに北上した後,姉川の際の地点で左にターンする.その地点は,資料では初めは崖の切り取りであったのが,後でトンネルになり,さらに廃線後道路の幅を広げるためにトンネルを壊して切り取りとした,とあった.

 ずっと真っ直ぐな道を歩いてきたので,何というか,新鮮であった.廃線歩きも軌道があまりにもグニャグニャとカーブが多いと全部は覚え切れない.しかしここは逆に極端である.トンネル部分には入り口付近と思われる場所の西側に崖の法面を石積みで補強した部分とトンネル内の湾曲した石積みが残っていた.トンネルは僅かに左カーブしていた事が窺えた.

 トンネル跡の途中で山東町から長浜市になる.トンネルの長さは歩いた歩数が86歩だったので50m強あった事になる.トンネル跡を過ぎると下り坂の真っ直ぐとなる.道路の東側の路肩へ行けば姉川はすぐで,崖が川の堤防の替わりになっているのが分かった.下り坂を行くとすぐに姉川から引かれた水路が道路の下をくぐって西側に延びていた.これが後で分かるが,重要な水路であった.

 坂を下り切りR365から県道37が分かれる三叉路に着いた.R365は右に不自然にカーブし,県道は滑らかに左カーブしていて軌道跡が濃厚に反映していた.

 三叉路の中のスペースに,「樽番」の碑があった.樽番とは渇水の際姉川の水を北の浅井方面と西の長浜方面へ分けるために,樽に汲んだ水が落ちて無くなる時間でスイッチする物で,なるほど新しい堰が出来た今でも,用水は二手に分かれている.先の,”馬車道物語”に僅かな期間設置された上坂駅の記述がある.それは,”この停車場は龍ヶ鼻の一本松と呼ばれる所,現在は樽番の遺跡の碑がある辺りにあったようだ,”というものである.それによれば,今のR365と県道37が分かれる所に駅があったことになる.

 県道に入る.県道は4車線で両側に歩道がある道である.国道のR365よりずっと立派な道である.馬車道物語の記載では,昭和の初め,長浜で一番立派な道路は馬車道だった,とある.今の県道はR365と北陸自動車道やR8との連絡路としても重要だが,汽車や馬車鉄道が走ったこともある歴史ある県道といえる.

 すぐ南の派生尾根に茶臼山古墳があった.解説看板では4世紀後半に造られ,長さが95mある前方後円墳である.東海と近江の間の交通の要衝を治めた人物の物とされている.古墳に登ってみた.なるほど眺めが良くて交通の要所なのが理解できた.龍ヶ鼻には戦国時代の姉川の合戦の際,信長の陣が造られた事もありここは汽車のルートだけでなく重要な場所であった.

 古墳のたもとで長浜方面への用水はさっそく3本に分かれていた.姉川の水利面でも重要な地点であることが分かる.県道に戻り長浜を目指す.県道はしばらく軌道跡からやや南に外れる.軌道跡には里道があった.軌道は,真っ直ぐであった.里道には上坂の集落があり,太い県道は,”馬車道を”避けた,と云える.先ほどの樽番の碑の辺りは集落は無く,この辺りに上坂駅があった方が良かったと思われるが当時の様子は知る由もない.

 てくてく歩く.真っ直ぐな道の先には信号の明かりが遥か遠くまで見える.やがて北陸自動車道の高架が横切る地点が徐々に近づいてきた.僅かに右カーブしているがそれは当時のままかどうか,道が広がっているので分からない.

 また単調に歩く.県道はほんの僅かに右にカーブし,先を横切るR8の車が見えてくる.R8を過ぎると県道はやや北にカーブするが,来たルートに対して真っ直ぐな狭い道路が延びている.予め地図で見ていたので迷わずそちらに入る.

 狭いが真っ直ぐな道は,1.5km位延びていた.線路跡なのは間違いはないが,知らなければとても気がつかないであろう.三ツ矢元町で馬車道は無くなってしまう.そこからも,”馬車道物語”に詳しい.何々燃料店で馬車道は無くなり,何々墓地の南をかすめて,という具合である.

 それに従って線路跡を推定する.突き当たりからすぐ南に路地があり,進むと記載通りの墓地であった.墓地の南縁は緩やかに南にカーブしていて軌道を反映しているかもしれない.その先は斜めに進む道が無く,全く分からなくなっていた.やや南寄りに西へ,既存の道を歩くとJR北陸本線の軌道に出た.

 ”馬車道物語”にある分岐点に行ってみたが,記載よりもさらに雰囲気が損なわれていた.踏切から長浜方面を見たが軌道はややカーブしていて駅は見えなかった.なるべく線路に沿って南下する.途中に,JRの社宅があり何らかの土地の運用で関係があるかもしれなかった.

 もう4時である.予定では敬意を表して長浜の旧駅に行くつもりであったが時間が遅い.写真集「長浜百年」等の資料を見るために図書館にも行くつもりであったが,疲れていたので止めてしまった.  帰りの新快速電車は,長浜の盆梅展が始まっているせいもあって,いつもより乗客が多かった.