■沿革

 この路線は、もともと大正2年に播州鉄道が加古川〜西脇間を敷設したことに始まる。大正12年に鍛冶屋まで延伸したが、同年に播州鉄道の事業を継承した播丹鉄道が、その翌年、野村(現西脇市)〜谷川間を開通させ、この新たな開通区間が加古川〜野村間と一体となった加古川線を名乗ったため、野村〜鍛冶屋間は名称の上では別支線となった。このことは、その後70年を経て、この区間の運命に決定的な影響を及ぼすことになるのである。

 ただ、線区名称には関わりなく、利用者の流れは西脇から加古川方面へ向かうものが多く、その実態を反映してか、運転系統やダイヤグラム、そして列車番号に至るまで加古川〜野村〜鍛冶屋間が一つの「本線」のようになっていて、野村〜谷川間はピストン運転主体の別支線のような扱いであった。

 この付近の中核都市である西脇市の代表駅であった西脇駅は、鉄道にとってもこの付近の中心駅で、構内には常に同駅終着・始発の気動車のエンジン音がこだまして、「みどりの窓口」も置かれ、乗降客数も付近では抜きんでた存在であった。

 しかし、野村〜鍛冶屋間が単独の鍛冶屋線という線名であるが故、いくら野村から西脇間でまとまった輸送密度を記録しても、たった1.6kmしかない1駅間だけのことであり、残る西脇〜鍛冶屋間が一線区としての成績を押し下げてしまうという、致命的な構造を持っていた。

 そのため、特定地方交通線の第一次廃止対象線区(輸送密度2000人以下)にぎりぎり選定されるに及んだ。この時は沿線に住宅団地が建設中で、この完成により乗客が増えて輸送密度が2039人になるという試算で(???)何とか難を逃れたが、輸送密度4000人をクリアせねばならない第三次の廃止対象線区の選定からは到底逃れることができず、バス転換による廃止か、第三セクターによる鉄道存続かのいずれかの選択を迫られることとなった。

 同じ加古川線の枝線であった三木線(現三木鉄道)や北条線(現北条鉄道)が、第三セクターでの鉄道存続の道を歩んだのに対し、輸送密度や沿線人口の面で三木線よりは恵まれ、北条線とは同程度の条件であった鍛冶屋線の沿線自治体が選択したのは、鉄道廃止〜バス転換であった。これには、先に第3セクター鉄道化された三木・北条鉄道が開業後も乗客が増えず、苦戦していたことが大いに影響したといわれる。

 結局、いわゆる特定地方線の廃止では、大社線(廃止)、宮津線(現北近畿タンゴ鉄道)と並んで最後、JR移行後の平成2年3月31日限りで鍛冶屋線は地図から消えた。末期の輸送密度はさらに減って2000人を大きく割り込んでいたという。



■ガイド 野村(現西脇市)〜鍛冶屋間

 旧鍛冶屋線の沿線は元々人口が少ないわけではないうえに、ごく最近に廃線跡の再利用が急速に進んだため、残念ながらここに掲載するのを取りやめようかと思うほど、鉄道の匂いのする痕跡はほとんど消え去ってしまっている。

 ただ、今でもこの鉄道の敷設目的に関連する山田錦(灘五郷等に送られて、酒米として使用される)の田圃や、昔小学校の社会科で習ったような、片傾斜の三角屋根が連なる播州織の工場は沿線随所に見られる。また、釣り好きの方には播州釣り針の産地として、「がまかつ」をはじめとする有力メーカーがあちこちに見られるなど、ほのぼのとした廃線跡の旅を楽しむことができる。


 鍛冶屋線の廃線後、西脇市と改称した旧野村駅から、谷川へ向かう加古川線が右に曲がっていくのに対して、その生い立ちを象徴するかの如く直進する廃線跡は、よく整備された歩行者・自転車専用道となって、西脇市街へと突き進んでいく。

西脇駅連動図表
現役時代の西脇駅の配線が伺える連動図表 
(後述の鍛冶屋線市原駅記念館蔵) 

 地理的にも西脇市街の中心にあった西脇の駅跡は、駅跡を貫通する元の駅前通りと、廃線跡を活かしたレントン通りという名の道路が交わる、大きな交差点となっている。その立地の良さを生かしてか、駅跡には瀟洒な再開発ビルが建ち、シティホテルやバスセンターなど、以前とは見違えるほど近代化されている。

 鉄道存命時にこのような再開発がなされていたら、鉄道と共に付近一帯が有機的に発展し得ていたのではないかと思えるほどであるが、駅跡の西方に向かって建ち並ぶ建物が、道路と微妙な角度をなしていることを除けば、往時の面影を伺うのは難しい。

 ここからしばらく、杉原川に出会うまでの廃線跡は、いったんは歩行者・自転車専用道も混じる形に整備されていた。そのため、つい最近まで築堤の形が残っていたり、線路跡に薄いアスファルトを敷いただけという、鉄道の面影を残す箇所も多かったのだが、そういう部分も再び工事の手にかかって、今ではかなりの通行量のある一般道路と化した。

 鍛冶屋線の現役時代、杉原川沿いの撮影名所のひとつでもあったA地点でも、大規模な崖の法面の工事が行われ、なぜか一部分が線路跡のレベルより盛り上がった普通の道路となった。そして、鉄道跡らしくすっかり線形のよいこの道を進んでいくと、杉原川の堤防上のようなところにあった市原駅の跡に着く。

市原駅跡
鍛冶屋線市原駅記念館がある市原駅跡 

 ここには、駅舎のあった位置に「西脇市立鍛冶屋線市原駅記念館」と称した瀟洒な建物が建っている。私が昭和60年頃に鍛冶屋線に乗車した当時の市原駅舎は、もっと薄汚れた、うらぶれた感じのものだったような気がするが、その記憶は間違っていないらしく、この記念館の建物は、地元の篤志家により建てられた初代駅舎を廃線後に復元したものだという。

 記念館の中には、タブレット授受器や市原駅の運賃表、西脇駅の連動図表をはじめとして、様々な鍛冶屋線の遺物が展示されている。また、構内跡の北端付近には、緑に白の帯を巻いた加古川線カラーの通勤型気動車が2両、それに腕木信号機や踏切の警報機と遮断機が保存されていて、遺物の少ない鍛冶屋線跡探訪のちょっとしたアクセントポイントとなっている。ただ、長い年月のあいだ、風雨にさらされ続けているだけに、荒廃している感は否めない。

 この駅跡の先で国道と交わるところから、廃線跡は「星の遊歩道」という歩行者・自転車専用道となっている。基本的にきっちりと整備されているためにこの区間の遺物はないが、起終点部分だけには地面にレール状のものが埋めてあるほか、鉄道の車止め風のモニュメントも設置と、鉄道跡の遊歩道であることをアピールする工夫が見られる。

曽我井駅跡
曽我井駅跡に残る2枚の看板 

 のどかな田園地帯の中、「星の遊歩道」を進んでいくと、駅の面影を残した小さな公園が現れる。ここが羽安駅跡であるが、この羽安という地名、もともとあったわけではなかった。大正12年の駅の開設時に、付近の旧地名である羽山(はやま)とその北方にある安田(やすだ)の集落が、駅の名前の取り合いをした結果、両方の名を1字づつとることで決着し、「羽安」という駅名が生まれたのだという。いわば喧嘩両成敗のような形での決着となったわけだが、その後、駅周辺の町名も「羽安」になったというから面白い。この地から鉄道はなくなっても、鉄道があった証左が、一見そうとは分からないところで、おそらく永久に残り続けるという意味で、非常に興味深い史実である。

 起点と同じモニュメント類が置かれている「星の遊歩道」の終点からは、これまた最近に完成した真新しい2車線道路が完全に廃線跡をなぞっている。そのため、途中の柵に電車のデザインの絵が描かれていること以外に、鉄道の面影はない。

 ただ、曽我井駅跡は、桜並木の美しかったプラットホームこそ跡形なく撤去されているが、その手前に建てられていた「中町観光案内板」と「みんなで残そう国鉄鍛冶屋線」の看板が、色褪せながらもそのまま残されている。「中町観光案内板」には鍛冶屋線も記載されたままであり、ここに鉄道が、ましてや駅まであったことを知らない人は、何故このような道路脇に、唐突にわけのわからない看板が建っているのか不思議であろうが、廃線跡を探訪する私たちには、駅のあった位置を特定する大きな決め手となる。

鍛冶屋駅跡
駅舎と気動車の残る終点鍛冶屋駅跡 

 鉄道跡らしい緩やかなカーブを描く道路を進んで、昔の駅前通りに面影を残す中村町駅跡を過ぎると、今度は中町の整備による、「水と風の遊歩道」という名の歩行者・自転車専用道路となる。かなり改修されたものの、鉄道時代の雰囲気を残している杉原川を渡る橋梁を過ぎると、ほどなく現役時代にはちょっとした桜の名所でもあった鍛冶屋駅跡に着く。

 ここには開業時から使われていた駅舎が綺麗に化粧直しされて、鉄道資料館、および公民館として使用されている。旅館や仕出し屋が並ぶ、いわゆる昔ながらの駅前の雰囲気はたいへん懐かしく、中村町の駅前付近と並んで、この数十年間変わっていないのではないかと思わせるような良い空気感が付近に漂っている。プラットホームも1両分だけながら残されており、鍛冶屋と中村町の駅名標があるほか、これまた加古川線カラーの気動車が1両横付けされている。



■国鉄鍛冶屋線あとがき

 もし、冒頭に述べた線区名称が、西脇側が加古川線であったならば、まず確実に西脇駅がなくなることはなかったであろう。ここに、線区名称によって画一的に路線の存否を決めてしまう国鉄再建法のいびつさを感じずにはいられないし、利用実績からいって、野村〜西脇間だけでも残せなかったかと思わずにはいられない。ただ、事業者側から見ると、それでも赤字路線であることは変わらないし、少しでも赤字を減らして体質を改善する為には、そんな悠長なことは言ってられないのかもしれない。

 逆に、野村〜谷川間に加古川線という文字が被せられなかったならば、おそらくこの区間は現存しなかったであろう。それでも周辺住民以外には殆ど影響なかったのかもしれないが、たまたま先の阪神大震災に伴う東海道線・山陽線の不通時に、播但線とともに、この区間を含む加古川線が代替ルートとして活躍したのである。この時は、今振り返っても信じられないほど周辺道路もマヒしていたため、現に編者も一度利用したほどで、こういうことを考えると、両端がつながっている路線は、多少利用者が少なくても存続する価値があるのかなあと思うし、運命の不思議さを感じずにはいられない。

 そして平成16年末に、加古川線は電化された。電化をするほどなら野村〜西脇間を残しておいたら良かったのに・・・との思いを再び強くしてしまうが、その一方で大変利用者の少ない西脇市〜谷川間も、異常時の代替ルート確保の観点から同時に電化されることとなったという。これは明らかに先の大震災の「実績」がモノをいったわけで、鉄道にとって厳しいこの時代に電化されるくらいなら、もう永遠に廃止されることはないであろう。本当にこの区間はツイているといった印象を受ける。

 もっとも、線区名称のおかげで国鉄再建法の網をかいくぐってきた他の路線はというと、函館本線の上砂川支線や、美祢線の南大嶺〜大嶺間など、残念なことに次々と消えつつある。常に廃止の噂の絶えなかった可部線先端部分も廃止されるなど、利用の少ない区間の存廃は、これからも予断を許さないのが現状である。

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