舞鶴市・日本板硝子専用線




 第二次世界大戦の槌音が近づいていた昭和14年、舞鶴市長浜にあった第三海軍火薬廠が爆薬及び炸薬の製造及び滞薬量が激増し、近隣の市街地に対しても危険な状態になったため、加佐郡朝来村(現在の舞鶴市朝来地区)に移転することが決定した。そして、現在舞鶴工専や青葉山ろく公園のあるあたりに成形工場及び火薬庫、その西側一帯には製薬工場を建設し、第三海軍火薬廠鉄道側線として松尾寺駅から約6km、軍用引込線を引いたのがこの専用線のそもそもの始まりである。


 終戦後、軍港都市舞鶴は新たな市発展のよりどころとして平和産業を誘致したが、そのひとつに日本板硝子舞鶴工場があった。建設場所として製薬工場跡西側を選んだが、一つの理由として、旧第三海軍火薬廠鉄道側線が工場建設の資材輸送及び操業開始後の貨物輸送に利用できることもあった。結局この側線跡を舞鶴市が全長6.8kmの専用線として整備し、工場は昭和27年に操業を開始した。

 小浜線の中で松尾寺が突出した貨物取扱量を誇り、近隣の駅が貨物取扱いを廃止した後はここだけが気を吐いている状況で、この専用線のために、京都の梅小路から、そして福知山近辺の貨物扱いが全面廃止された後は小浜線を経由して敦賀方面から、この専用線を目指してセメントやケイ素(ガラスの原料)を輸送する貨物列車が運行されていた。平成に入ってもしばらく運行を続けていたようだが、トラック輸送に代わられていつのまにか廃線となった。

 さて、この専用線をなぜわざわざ取りあげたのかというと、松尾寺を出てすぐのところで、珍しい鉄道・道路併用トンネルがあったからである(A地点)。私は不勉強なので他には横須賀線田浦から出ている引込線しか他に例を知らない。ただ、近隣への行楽帰りに初めて見つけたとき、これは珍しいと手元にあったビデオでこれを記録したものの、その後ミスでこれを消してしまい、いまだに悔しい思いをしている。後に再訪したときにはすでに線路はなく、自転車道化されていて、問題のトンネルも改修工事中で立ち入ることさえできなかった。ただ、日本板硝子工場付近では、「とまれみよ」の踏切標識が市街地の中にポツンと立って、これだけが目立った痕跡となっていた(B地点)。

住宅地の横に残る「とまれみよ」の標識






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