■沿革

 明治期以降、首都となった東京の人口が、爆発的に増加するにつれ、水資源の開発が急務となってきた。そのため、大正から昭和のはじめにかけて、武蔵野丘陵に村山・山口両貯水池が造られたのに引き続き、当時の東京市によって計画されたのが、多摩川水系の上流をせき止める小河内ダムであった。

 昭和7年に議会の承認を受けながら、千戸近くに及んだ水没住戸の移転補償問題や、水利などの諸問題の解決に手間取って、着工に至ったのは昭和13年のことであった。当時としては、我が国で例を見ないほどの大工事であったため、昭和11年に竣工した、世界最大の米国コロラド河のフーバーダム(昔、社会で習ったなあ・・・)に使われた重機械類の一部を格安で譲り受けることにより、25tケーブルクレーンや骨材計量機などを用意したという。

 しかし、昭和12年に勃発した日華事変から太平洋戦争へと突入する大きな流れの中で、次第に人員や資材の調達に支障をきたすようになる。そして昭和18年、海軍の水兵が突然建設現場に乗り込んで、ダム建設用機械を強制徴用する事態となり、ついには工事はやむなく一時中止に追い込まれてしまった。

 ところが戦時中に、のちのダム建設再開に向け、看過できない事象もあった。それは、日原方面で産出する石灰石を輸送するために、青梅鉄道(現JR青梅線)の終点御嶽から氷川(現奥多摩)まで、鉄路が敷設されたことである。これは、もともと奥多摩電気鉄道(現在の奥多摩工業)が免許を取得し、ダム建設に便益がある東京市も融資を行うなど全面的にバックアップしていた路線であるが、戦中のために完成が遅れていた。これが未成のうちに国に買収されることが決定し、昭和19年7月の開通とともに国有化されたのである。

第三氷川トンネル
第三氷川トンネル内部 

 この氷川までの鉄道開通は、戦後の工事建設資材輸送の見直しのときに、大いに効力を発揮することとなる。当初は、氷川からの索道や自動車による輸送も検討されたのだが、輸送の確実性や費用などを勘案して、鉄道の専用線による物資の輸送が決定された。

 この路線が東京都水道局小河内線、通称水根貨物線である。延長6.7km、うち橋梁23個所総延長1.1km、隧道23個所同3.3kmにおよぶという難路であったが、昭和25年に建設にとりかかり、27年11月に完成をみた。将来の観光鉄道化をも睨み、トンネル断面は電化可能な大きさとされ、東京都はセメント専用タンク貨車を15両製作し、運行は乗務員ごと牽引機を借り受ける形をとった。五日市機関支区の蒸気機関車が牽引を担当した。

 昭和23年に再開されたダム建設工事は、専用鉄道の開通によって、飛躍的に資材の輸送効率が上がった。専用鉄道は、昭和27年12月から32年5月までの約4年半の間、ダム建設に必要なセメントの全量33万トン、川砂の6割にあたる60万トンを輸送、そして昼夜の境なく行われた工事は、昭和32年、貯水量18,540万m(東京ドームの150杯分)という、当時としてはとてつもない巨大ダムとなって結実した。殉職者87名を出すという大工事であった。

 ダムの完成により、役割を果たした専用線は、東京都から西武鉄道、そして奥多摩工業へと所有者が変わり、現在に至っている。



■ガイド 奥多摩〜水根間

 石灰石輸送が盛んであった頃の名残か、単線区間に入っても、列車本数に比して列車行き違い可能駅が多い青梅線の終点の奥多摩駅から、往時はレールが構内からさらに先、奥多摩工業のセメント工場の中へと続いていて、これが水根貨物線の一部でもあった。貨物営業が廃止された今、これらはすっかり撤去されていて、プラットホームの北側にあったヤード跡も、資材やトラックの置き場となっている。

 奥多摩工業のプラント敷地内の貨物線跡の現況は、プラントが日原川の対岸にいても耳障りなほどの、けたたましい音とともに今なお操業中であるがために、私たちには知るすべもない。

 このプラントから、氷川鉱山の曳索(えいさく)鉄道という、ワイヤーに一定間隔で結わえ付けられた軌間762ミリのトロッコが、北西方5キロにある氷川鉱山まで運転されており、その大きな音の一部はこのワイヤーを駆動することによって発せられているのかもしれないが、まあいずれにしても、最初に廃線跡を目の当たりにできるのは、第一氷川トンネルを抜けたA地点になる。

 ここでは、レールこそ撤去されているものの、犬釘の刺さった枕木がいまだ埋まっている。この付近は、昭和31年11月、斜面から崩壊した土砂に乗り上げた列車が日原川に転落し、6名が死亡したという悲しい歴史も秘めているところであるが、ここから奥多摩方に戻って、フェンスの張られている第一氷川トンネルの中を覗き込むと、中にはカーブしたレールまでもがそのまま残って、反対側の入口から差し込む光を鈍く反射しているのが見える。

 一方、A地点から水根側へと歩を進めると、46メートルの主径間を誇った、コンクリートアーチの日原橋梁が、レールを今なお載せながら、その巨容を見せている(B地点)。この日原川橋梁の美しいコンクリートアーチは、ここから700メートルほど下流にある、青梅街道が架けている氷川大橋の一部の下部構造と、酷似しているのが面白い。設計が共通だったのであろうかと思うほどである。

第一氷川トンネル
レールが残る第一氷川トンネル。 
以前は奥多摩工業のセメント車が 
このあたりまで押し込められていたらしい 
日原橋梁
コンクリートアーチ(左上)の日原川橋梁は、 
美しいカーブを描く橋梁である。 
手前にはレールも見えている(B地点) 

 もっとも、日原川橋梁の上を歩くことは危険極まりないので、私たちは大きく迂回せざるをえない。次に廃線跡に容易に取り付くことができるのは、青梅街道から分かれる道の坂を登ったC地点である。ここでは、重厚感のあるコンクリート製の第二氷川橋梁が、道路の上を跨いでいる。全般的に、この鉄道の諸施設が高規格でできているのは、将来の旅客営業の可能性を含んでいたからである。

 このコンクリート橋梁の脇から廃線跡へと駆け上がり、いまだに地中にレールが埋もれていると思われる路盤を奥多摩方向へ戻ると、線路跡はこれまた奥多摩工業所有の施設の脇を通り、日原川の西岸斜面に広がる墓地の上を進んだ先で、小屋に吸い込まれている。

 一方、反対の水根方へ進むと、コンクリート橋梁の上を通った先に、チェーンが張ってある。もしやと思ってチェーンに吊るされた札を反対側から見ると、今まで入っていたところは立入禁止であったようだ。ただ、途中にペットの糞を始末するよう忠告した看板もあったものだから、地元の人たちの散歩道になっているようではある。そして、さらにここから水根方へ進むと、土に埋もれながらもレールが頭を出すようになり、その先に第三氷川トンネルが現れる。

第三氷川トンネル
第三氷川トンネルの水根口(E地点) 

 しかし、このトンネルは封鎖されており、その先へ行くには再び迂回する必要がある。それには先ほど通ったD地点まで戻って、奥多摩町が整備した「奥多摩むかし道」に入ればよい。すると、「羽黒坂」という由緒ある坂を登った先の右側に、線路跡が擦り寄ってくるようになる。

 ここで、線路跡に踏み込んで奥多摩方に引き返し、先ほどの第三氷川トンネルの水根口へと辿りつくと、こちら側の入口のフェンスの扉は開け放たれている(E地点)。これ幸いと、ちょいと失礼してその中に踏み込むと、内部にはカーブした線路がそのまま残っていた。

 ところで、このあたりは、平成16年に日本テレビの「冒険!CHEERS!!」という番組の廃線復活プロジェクトで、再び列車を走らせるように手が加えられたので、現在は少し変わっている可能性がある。

 線路跡が「奥多摩むかし道」と交差した先は、雑草が繁茂しているのに加え、この線路跡では少数派となる鋼鉄製の橋梁も待ち構えているため、路盤上を突き進むのは大変危険である。その代わり、線路跡と交差して山側に移った「むかし道」が、線路跡と並行しながら少しずつ高さを増すために、レールが残る廃線跡を上から見下ろす、いわば高見の見物ができる(F地点)。

 特に、レールを載せたままの廃橋梁を、上方からゆっくりと見下ろすことができるのは、私も何百キロと廃線跡を歩いてきた中で、旧倉吉線の上小鴨〜関金間に残る橋梁跡くらいしか記憶にない。

むかし道より
「むかし道」より橋梁上に残る線路を 
見下ろす。新緑が眩かった(F地点) 

 このあたりはD地点にある、奥多摩町が建てている観光案内の看板にも載せられている、いわば町公認の廃線跡である。もっとも、この看板の記述は、「ダム建設に使用したトロッコの線路跡」となっている。トロッコどころか、その気になれば旅客列車を通すことができたほどの、堂々とした地上設備を持った鉄道であったことは、前述のとおりである。

 廃線跡と並行したむかし道は、いったん上げた高度を下げていったかと思うと、線路跡がコンクリート橋梁で越えている谷を、等高線に沿うように迂回し、しまいには上を通り越す。いわば、映画の「マトリックス」で有名になった「タイムスライス」効果(マシンガン撮影)状態のようで、このコンクリート橋梁をくまなく観察できるよう、むかし道はこのようなルート取りをしているのではないかと思うほどである。まあそんなことはないにしても、いろんな角度や高さから見物できて、さすが町公認の廃線跡だけはある(??)。

 線路跡がトンネルでくぐっているところの「むかし道」は、逆に谷側に大きくせり出して、細い舗装道路に合流することとなる(G地点)。ここには、トイレが併設された休憩所が設けてあって、徒歩で探訪する私たちにはありがたい。

 ただ、この先に関しては、線路跡は並行道路よりかなり高いところを通っていて、近づいたり踏み込んだりすることができなくなる。そのため、所々線路敷がトンネルから顔を出しているところでのみ、そのコンクリート橋梁を、下から見上げる程度しか観察できない。

 この廃線跡の探訪をする前には、あたりは行楽シーズンには周辺道路も渋滞することだし、この路線は観光鉄道としても充分やっていけたのではないかと漠然と思っていたが、これだけトンネルが多いとそれほど景色を楽しむことができない。観光鉄道化は、やはり無理だったであろうという気持ちに変わった。

鋼鉄製橋梁
かなり背の高い鋼鉄製の 
第四境橋梁跡(H地点)
日原橋梁
恐ろしく高さのあるコンクリート 
橋梁が連続するようになる(I地点)

 久しぶりに現れた集落のあるあたりからしばらくの区間は、訪問当時、並行道路が土砂災害によって封鎖されていたために、残念ながら様子を窺い知ることはできなかったが、この道路が再び青梅街道と合流する手前あたりには、かなり高い鋼鉄製の橋梁跡が見られる(第四境橋梁・H地点)。またI地点では、青梅街道の脇から見上げているだけでも恐ろしいほどの、圧倒的に高いコンクリート製の橋梁がそそり立っているのに驚かされる。この先も、青梅街道の北側にちょくちょく顔を出す線路跡は、路盤を残しながら西進してゆく。

 ようやく、線路跡が青梅街道と同じような高さにまで高度を下げてくるようになると(正確には道路が標高を上げているのであろうが)、線路の残る廃線敷に踏み込める箇所もでてきて、この廃線跡の探訪も終わりに近づく。中山トンネルの水根方(J地点)は、入口に柵がなされていないために、線路が残る内部に自由に立ち入ることができる。

コンクリ橋梁
第一水根橋梁は柱も太く、
高規格でできている(K地点)
第二水根橋梁
青梅街道を跨ぐ第二水根橋梁(L地点)。
右手前方が水根貨物駅跡になる 

 この鉄道は、終点の手前になってようやく青梅街道と交差して、多摩川にぐっと近づいていたが、この跨道橋である、第二水根橋梁のガーダーの南側氷川方には、列車運行停止6年後の昭和38年に塗装がなされた表示が見える(L地点)。ちなみに昭和38年は、この鉄道の所有が西武鉄道に移管された年で、この時点では観光鉄道に脱皮する可能性を充分秘めていたのであろう。

 終点の水根貨物駅跡は、この第二水根橋梁を過ぎてすぐのところにあった。跡地は山あいの地形の中の空き地となっているが、立地的には小河内ダム(奥多摩湖)の堰堤のすぐ脇にあたる。ここでコンクリートが生成されて、直接堰堤部分に流し込まれていたであろうことは、容易に想像がつく。



■東京都水道局小河内貨物線あとがき

 都市の発展に欠かせないもののうちのひとつは水である。話は飛躍するようだが、ハワイという亜熱帯の小島に、ワイキキという世界有数の規模を誇る一大リゾートができえた影の立役者も、ほかならぬ水であろう。オアフ島のホノルルの北東方に、常にといっていいほど雨が降っているところがあって、この地域の降雨がなければ、この島がこれほどまでに発展することはありえなかった。

 日本でも、例えば福岡圏では、ダムの貯水量の増えた減ったが夏の挨拶代わりになるほど、今でも慢性的水不足である。今でも人口が流入し続けている首都圏にとっては、今なお小河内ダムが重要な位置をしめていることは充分に想像できるし、事実東京都水道局のホームページでも一目瞭然である。

 そんなダムの建設に重要な役割を果たした当線の跡は、東京都内であるとは思えないほどの長閑な山村の中にある。特に「奥多摩いなか道」には、所々に休憩所も設けてあるので、小さなお子様のおられる家庭を持つ方でも、ハイキングやピクニックを口実に、家族を廃線跡探訪に誘い出すのにはもってこいである。

 この路線を探訪した印象をひとことでいうと、コンクリート構造物、つまりトンネルと橋梁の連続であった。そのため、安全に廃線敷に踏み込むことのできる箇所が少なく、しかも駅跡のたぐいはないのだが、周縁部でも開発の止まらない首都圏において、これほどの痕跡を残している廃線跡は、もはや貴重な存在であるのかもしれない。

 なお、まだ物足りないという方は、前述の奥多摩工業の曳索鉄道を覗いてみるのも面白いかもしれない。もっとも、ほとんどがトンネルの中のため、見ることのできるのは、M地点を含め、2箇所ほどしかなさそうであるが・・・。

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