■ガイド 寺泊線 西長岡〜越後関原間

 越後関原までは、鉄道営業末期の貨物輸送の痕跡を、あちこちに残している区間である。

 西長岡を出た寺泊線の廃線跡は、来迎寺線より先に線路が敷設された経緯を裏付けるように、西へと一直線に伸びている。そして、来迎寺への線路敷を左に分けるところで、右方へも日産化学工場への専用線跡が伸びていた。

 この跡は、しばらくは道路にその雰囲気を残していて、工場跡である陸上競技場付近(G地点)まで続いている。余談だが、日産化学が長岡工場を進出後わずか十余年でたたんでしまったのは、日産化学に勤めていた父の話によると、以下のようである。

 当時、この付近の日本海沿いには天然ガスが産出していた。これを受けて、信濃川沿いにも天然ガスが産出するはずであると、東大出の役員が主張し、角栄の後押しもあって(やっぱり・・)、工場進出が決まったのだという。ところが、会社の目論見に反して付近にガスが産出することはなく、結局大損害のままに工場をたたんでしまったらしい。

 寺泊線の廃線敷も、来迎寺線と同様、途切れることなく続いており、郊外の長閑な散歩といった風情を楽しむことができる。来迎寺線の有栗駅跡と同じく、市街地の中の停留所であった西中学校前の駅跡は何も残っていないものの、国道8号線の高架をくぐってすぐのところでは、廃線敷の幅がふくらんでいる。

複線区間
複線状になっていた区間に残る踏切跡(I地点) 

 ここが日越の駅跡である。構内跡の片隅に、線路敷から剥がされた枕木が山積みになっている駅跡からは、南西方にある出光石油の施設に向けて、短い引込線が延びていた。この跡は今でも一目瞭然であり、道床の感じは今なお生々しい(H地点)。

 また、日越駅跡から本線を寺泊方に進んだ右側に、小さなセメントプラントがあるが、ここから次の上除駅跡にかけては、このセメントプラントへ向かう貨物側線が本線と並行して、一見複線のようになっていた区間である。この名残は、I地点の踏切跡で特に明白であるし、複線分の広い用地跡には、架線柱が倒されたままになっているところも見受けられる。

 複線状になっていた線路の西端が、上除駅跡にあたる。ここには、本線であった南側の線路跡に沿って、プラットホームが残っている。しかし、駅跡から周りを見回してみても、近くに集落はさっぱり見当たらないという、まったくもって不思議な駅である。

上除駅跡
上除駅跡にはプラットホームが残る 
が、周りにあるのは高架道路だけ 

 地図を開いてみても、駅は付近のどの集落からも離れたような立地にあり、このようなところに旅客駅を設ける必要があったのだろうかと思っていたら、ここは昭和43年のセメント工場の進出による専用側線の敷設に伴い、それまでの停留所から400メートルほど西長岡方へ移動し、さらに停車場に改められたという経緯があるらしい。

 セメント工場は、どちらかというと、日越から踏切を越えたすぐ西方にあるので、日越の構内にしたほうが自然なように思えるけれど、いずれにせよ、上除も貨物中心に扱われていた駅であったということである。

 いつのまにか家屋が減ってきた周りの景色のなか、小さな橋梁跡を見せながら、途切れることなく続く廃線跡は、やがて緩やかに右へとカーブするようになる。そのカーブが終わらないうちに越後関原の駅跡が現れる。

 貨物専業となった後、20年近くの長きにわたり、終点となっていた駅跡には、島式の旅客プラットホームがそのまま残っている。構内の跡地には転轍標識が転がっているほか、貨物用らしきプラットホーム跡は、駅前のセメント工場の製品置き場と化していた。



■ガイド 寺泊線 越後関原〜与板間

 越後関原を出てすぐに北陸自動車道の高架の下をくぐるが、この先数百メートルの間が、寺泊線跡の中で唯一、区画整理により廃線敷が消えている区間である(J地点)。

 その後、廃線敷は復活するものの、しばらくの間は、西側の山裾湧水部に広がる集落や、東側の県道などになっている道路沿いに続く家並みのいずれともかけ離れた、一面の水田地帯の中をつき進んでいく。この、明らかに集客には不利と思われるルート取りは、鉄道建設当時の反対運動の影響によるものらしい。

 ホーム1本だけであった越後日吉の駅跡は、雑草が繁茂しているために、なんとなくプラットホーム跡が盛り上がっているように感じるだけである。それにしても、この駅は一番近傍の集落からでも1キロほど離れており、こんな遠くの駅まで歩くぐらいなら、地元住民ももっと他の交通手段を考えたのではないかと思ってしまうほど、まわりには何もない。それでもこの駅は開業当初は存在せず、後年増設された経緯をもっているから、なにがしかの要請があったのであろう。

 この越後日吉に比べれば、次の王寺川は、プラットホーム跡に貨物ホーム跡と思われる切り欠きがあったり、駅前に農業倉庫らしき古い建物があったりするので、米の積み出しのためにも設けられた、開業当初からの停車場であろう事は容易に想像できる。もっとも、付近に人家がなく、駅の近辺にある建造物は、この農業倉庫くらいしかないことは、越後日吉とそう変わりはないのだが。

 ちなみに、この王寺川という駅名は、線路跡の東側を走る道路沿いの、王番田、寺宝、河根川の各町から一文字づつとって作られた名前というから、国鉄鍛冶屋線跡の羽安と似たケースといえる。もっとも、王寺川に関しては、駅名をつけるために新造された名前なのか、それとも以前からこういう言い方があったのかはわからない。駅周辺に集落がなかったためか、地名にこそならなかったが、今でもこの付近を総称して王寺川地区ということはあるようで、公民館や農協の支所、あるいは保育所などに、その字面が使われている。

脇野町駅跡
島式ホームの横に建物の基礎跡が残る 
脇野町駅跡。駅前には古い農業倉庫もある  

 線路跡が、東方の家々を伴った県道にようやく近づく頃、次の脇野町の駅跡が現れる。ここでは、県道から、駅前通りであった道が延びてきたところに、プラットホーム跡を残している。駅舎のものらしい、建物の基礎の跡も見受けられるが、それは島式と思われるホームの端、つまり駅前広場から線路を渡ったところにある。

 このように、信濃川の西岸の平野をずんずん進むごとに現れる駅跡に、2つと同じパターンがなく、それぞれが異なった個性を発揮しているので、私たちを退屈させない。

 橋梁が撤去されている黒川を越え、しばらく行くと、次は越後大津の駅跡である。ここには、線路の向かって左側にちょこんとあったプラットホームのうち、縦の骨組みの一部のみが、かろうじて数本残っている。というよりは、これがホーム跡だと教えてもらわないと分からないほど、縦の数本の柱以外は朽ち果てて何もないといった方が、正しい表現であるかもしれない。このあたりは所々枕木も埋まったままであり、鄙びた廃線跡情緒を存分に醸し出している。

越後大津駅跡
踏切跡の向こう、右側に越後大津駅の 
プラットホームがあった。わずかに棒が 
ささっているように見えるのがその跡 

 線路跡が、西側に続いていた山裾の集落に並行するようになると、槙原の駅跡に着くが、ここには島式であったと思われるプラットホーム跡が残るだけでなく、その上には赤錆びた駅名標までもが、ポツンと載っかったままである。また、駅跡の西長岡方の、資材が積んであるあたりの下をよく見ると、なんと線路が見えている。雑草や資材で隠れている下には、果たしてどれほどの痕跡が残っているのかと、想像が膨らんでしまう。

 やがて、沿線随一の町であり、越後の小京都とも言われる与板の町が近づいてくる。この市街地に入ってすぐのところに、駅に昇る階段もそのままに残された、上与板のプラットホーム跡が現れる。ところが、そんなことで喜んでいる場合ではない。それよりなにより、この駅跡付近からは、線路のみならず架線柱までもが残る、長岡線跡探訪のハイライトといえる区間となるのである。

与板町内の廃線跡2
架線柱の残る線路跡に車が乗り上げて 
車が駐車する与板の日常的風景(K地点) 
与板町内の廃線跡3
住宅街の裏手のようなところに 
ひっそりとレールが残る(L地点) 

 このように、鉄道廃止後そのままの姿をいまだ保っているのは、廃止時期がオイルショックと重なっていたので、いつでも鉄道を復活できるようにとの配慮が働いていたためだとか、越後交通の3代目社長であった田中角栄が、再び線路を敷設してくれるかもしれないという期待があったからともいわれているが、理由はともかくとして、市街地の中を貫く錆びた線路と架線柱の列は、しばらく我々の歩みを止めさせてしまうほどのインパクトを与える。

与板駅跡
与板駅跡は、敷地の半分が残る。左奥のバス 
待合室は、旧貨物ホームの上にある(左上) 

 生活道路に並行したり、町の裏通りのようなところを通ったり、あるいは土砂に埋もれかけたりと、多彩な表情を見せながらも、ほとんど途切れることなく、レールと架線柱は続いている。しかし、レールが与板の繁華街の裏手にあたるようなところに来ても、不思議と与板の駅跡はその姿を現さない。

 おかしいなと思いながらなおも進んでいくと、やがて架線柱が見られなくなり、さらにしばらく進んだ、市街地のはずれのようなところで、ようやく与板の駅跡が出現する。ここも部分的ながら相対式のプラットホームが残っているほか、旧駅前広場は越後交通バスのバス停となっている。

 しかし、先ほどの上与板もこの与板も、それぞれ市街地の南・北端にあって、一番立地条件がよいと思われる両駅の中間地点に駅が設けられなかったのは、まったくもって不思議なことである。なにがしかの理由があったのであろう。

 つづき

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