■ガイド 丹波日置〜福住間

 丹波日置駅跡のすぐ東側の曽地川にかかっていたコンクリート橋は、廃線後もそのまま残っていたが、平成8年頃崩壊してしまった。その後、しばらく放置されていたものの、現在は廃線敷の道路化によって、出合橋なる普通の道路橋に架け変わっている。

 この道路橋の先で、線路敷跡を使ったバイパスは、右から寄り添ってきた旧道に合流するが、その脇から出ている篠山川の堤防のような小道が、篠山線の廃線跡の道である。小さな川を越えるところにはコンクリート橋がそのまま残り、田園地帯や川沿い、あるいは竹やぶの中を趣豊かにこの道は進んでいく。

 すると、いったん民家等に行く手をさえぎられた先に、明らかな築堤の跡が見えてくる。今となっては、これが数少ない、貴重な篠山線の痕跡ということになる。この築堤は、およそ1キロにわたって優美な姿を見せてくれるが、ところどころ崩されているために、コンクリート橋が残されて、ぽつねんと突っ立っているところもある(D地点)。

 築堤に並行する道路が篠山川を渡る手前で、右方へと分岐する道があるが、これが廃線跡を拡幅した道である。分岐してすぐ右側に、線路と、それより一段上にあった道路(現在廃道)との間にあった石垣が残っている。この道はいかにも鉄道跡らしい、緩やかなカーブを描きながら村雲駅跡に入るが、あたりはビニールハウスが立ち並んでいて、駅跡らしい雰囲気はない。

 村雲駅跡から、緩やかな右カーブを描いた線路跡の道路は、バス停のあるところから急に左に曲がっていってしまうが、線路はここをほぼ直進する形をとっていたはずである。しかし、またもや区画整理のために、ここから1キロあまりの間の線路跡は、道として残っているところもほとんどない。

橋梁跡
両脇の築堤が崩されて、コンクリートだけ  
がぽつねんと残った橋梁跡(D地点)  
切通し
道路の横に残る怪しいスペースは  
いかにも鉄道の切通し跡(E地点)  

 この先、福住までの間で唯一、目立った痕跡を残しているのは、E地点の切通しである。道路に沿って、ちょうど単線鉄道分の幅をあけて、北側の山が削り取られている。もともと道路より一段低かった線路跡は、道路の高さまで埋められ、木々も茂り、しかもデカンショ街道という訳の分からない(失礼)碑まで建てられているが、それでも山あいの鉄道でよくみられる風景そのものの、明らかに線路跡とわかる遺構である。

 ここを過ぎると、終点の福住駅跡はまもなくである。駅への旧取り付け道路に「福住驛」という店が暖簾を出しているのが目をひくだけの駅跡は、JRバスの車庫と農協の建物、および倉庫になっている。ただ平成8年の春頃にJRバスの車庫を縮小したらしく、広い車庫の敷地に体を休めるバスは1〜2台と、すっかり寂しくなってしまった。

 そして農協の建物の横に、駅名標を型どった福住駅跡の碑がある。御影石を使っているためか。まるで駅の墓標のように見える。



■国鉄篠山線あとがき

 もめにもめた国鉄篠山線の廃止の際、沿線自治体は数多くの約束を当時の国鉄と交わしたが、そのひとつに、福知山線複線電化の早期実現があった。これが、国鉄の財政危機から国鉄解体、JRへの移行と大きく情勢が変化したなか、篠山線廃止後四半世紀の年月を経て、このほどようやく実現したというのは、たいへん感慨深いものがある。

 そしてこのほど、もう一つの周辺住民の長年の願いもようやく叶った。それは、平成11年4月に近隣町の合併により「篠山市」が誕生したことである。兵庫県は香川県とともに「村」のない県であるが、そのために、県中西部や北東部は同じような規模の、県民の私でさえ聞いたことのないような町が林立している。地域を引っ張っていくような核となる都市が存在しないことは、少なからずこの付近の発展にブレーキとなっているように感じていたが、強力なコアが誕生したことは非常に喜ばしいことである。

 この篠山の町は、沿革で述べたように、ことごとく鉄道から見放された。一家に一台から一人一台になるほどのクルマ社会になった現代において、鉄道がないことが即不幸であるというつもりは毛頭ないが、大阪への通勤・通学圏となった今、あるに越したことはない存在ではあったろう。

 ただ、鉄道と相性が悪かったことは、篠山の町の近代化を阻んだかもしれない反面、全国どこも同じような町並みになっていく、均一な都市化から救われたというメリットもあった。実際、篠山の町は今でも城下町らしい風情を存分に残しており、特に篠山城祉の南外濠付近は濠との間に柵もなく、江戸時代からのオリジナルな姿とそれほど変わっていないように見える。

 それにしても、篠山線跡のところどころに残るコンクリート橋跡が、心なしか威圧的に見えるのは、この路線が国策による軍需路線であったからのような気がする----というのは少し大げさであろうか。まあ単純に戦時中のために鉄が不足して、コンクリートでつくらざるをえなかっただけなのかもしれないが。

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