この先、福住までの間で唯一、目立った痕跡を残しているのは、E地点の切通しである。道路に沿って、ちょうど単線鉄道分の幅をあけて、北側の山が削り取られている。もともと道路より一段低かった線路跡は、道路の高さまで埋められ、木々も茂り、しかもデカンショ街道という訳の分からない(失礼)碑まで建てられているが、それでも山あいの鉄道でよくみられる風景そのものの、明らかに線路跡とわかる遺構である。
ここを過ぎると、終点の福住駅跡はまもなくである。駅への旧取り付け道路に「福住驛」という店が暖簾を出しているのが目をひくだけの駅跡は、JRバスの車庫と農協の建物、および倉庫になっている。ただ平成8年の春頃にJRバスの車庫を縮小したらしく、広い車庫の敷地に体を休めるバスは1〜2台と、すっかり寂しくなってしまった。
そして農協の建物の横に、駅名標を型どった福住駅跡の碑がある。御影石を使っているためか。まるで駅の墓標のように見える。
もめにもめた国鉄篠山線の廃止の際、沿線自治体は数多くの約束を当時の国鉄と交わしたが、そのひとつに、福知山線複線電化の早期実現があった。これが、国鉄の財政危機から国鉄解体、JRへの移行と大きく情勢が変化したなか、篠山線廃止後四半世紀の年月を経て、このほどようやく実現したというのは、たいへん感慨深いものがある。
そしてこのほど、もう一つの周辺住民の長年の願いもようやく叶った。それは、平成11年4月に近隣町の合併により「篠山市」が誕生したことである。兵庫県は香川県とともに「村」のない県であるが、そのために、県中西部や北東部は同じような規模の、県民の私でさえ聞いたことのないような町が林立している。地域を引っ張っていくような核となる都市が存在しないことは、少なからずこの付近の発展にブレーキとなっているように感じていたが、強力なコアが誕生したことは非常に喜ばしいことである。
この篠山の町は、沿革で述べたように、ことごとく鉄道から見放された。一家に一台から一人一台になるほどのクルマ社会になった現代において、鉄道がないことが即不幸であるというつもりは毛頭ないが、大阪への通勤・通学圏となった今、あるに越したことはない存在ではあったろう。
ただ、鉄道と相性が悪かったことは、篠山の町の近代化を阻んだかもしれない反面、全国どこも同じような町並みになっていく、均一な都市化から救われたというメリットもあった。実際、篠山の町は今でも城下町らしい風情を存分に残しており、特に篠山城祉の南外濠付近は濠との間に柵もなく、江戸時代からのオリジナルな姿とそれほど変わっていないように見える。
それにしても、篠山線跡のところどころに残るコンクリート橋跡が、心なしか威圧的に見えるのは、この路線が国策による軍需路線であったからのような気がする----というのは少し大げさであろうか。まあ単純に戦時中のために鉄が不足して、コンクリートでつくらざるをえなかっただけなのかもしれないが。
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