■ガイド 糠平〜十勝三股間

五の沢橋梁跡
糠平ダムによる付け替え区間にもコンクリートアーチ  
橋が残っている箇所がある(五の沢橋梁跡・D地点)  

 糠平からの士幌線は、多くのトンネルと橋梁によって曲線半径の緩い良好な線形を維持しながら、国道273号線の湖寄りを進んでいた。

 意外なほど多いトンネル跡には相変わらず蓋がなされていてつまらないが、この糠平ダム建設による付け替え区間にも、コンクリートアーチ橋を見ることができ、明らかに周囲の景観に配慮した跡をうかがい知ることができる。そんな微笑ましい気分で歩いているときにも時折ガサッという音がして、もしやと身構えてしまうが、またまた野生の鹿の群れであった。この付近には、意外なほど多くの野生の鹿が生息しているようである。

 糠平湖の最奥部でこれを渡っていた第4音更川橋梁は跡形なく撤去されてしまったが、その先の部分も路盤跡は残っている。そして、これらの路線付け替え後の廃線跡だけでなく、驚くことに湖に沈んだはずの路線付け替え前の士幌線の遺物が存在している箇所もある。

タウシュベツ川橋梁跡1
糠平湖底に沈んだ(はず)のタウシュベツ川橋梁跡  
の遠望。古代ローマの水道橋遺跡のような趣である  
タウシュベツ川橋梁跡2
タウシュベツ川橋梁跡をたもとから望む。水中に没した  
せいなのか、程良い風化具合が私たちをそそらせる(?)  

 それは、E地点のタウシュベツ川を渡っていた、11連アーチというまことに優美な構造を誇った橋梁跡である。この橋梁跡の面白いところは、冬季から初夏にかけての糠平湖の水量が少ない時には、橋梁跡は我々の前に顔を出しているのであるが、湖面が上昇する夏からは徐々に水没しはじめ、秋には湖底に沈むという、ドラマチックなサイクルを毎年繰り返していることである。

 湖水に侵されるためか、他の橋梁に比べ、コンクリートアーチも程良い具合(?)に風化していて、古代ローマ遺跡のような風格を漂わせている。湖底の無数の切り株が人工湖独特の殺伐とした雰囲気を醸し出す、まわりの景色とも面白い対比を見せて、思わず長い時間佇んでしまう場所である。

 新旧の士幌線跡が合流し、糠平湖の膨らみがなくなってくると、久しぶりにトンネルにぶつかるが、これが線路付け替えまでは士幌線唯一であった、全長165メートルの音更トンネル跡である(F地点)。このトンネルの十勝三股口へは、並行する国道の「音更川支流」(川の名前がついていないのはいかにもである)に架かっている渡鹿橋のすぐ東側に入れば容易に行くことができるし、その先も路盤跡を見失うことはない。怖いのは時折出没するといわれるクマだけである。

 それにしても、並行道路である国道273号線があまりにも立派に(つまり道幅が広く、線形もほとんど直線状に)整備されているために、たまに通るクルマが高速道路を走っているかの如くビュンビュンすっとばしている。当初はこの道がなかったために、貨客の輸送において鉄道の独壇場であったというが、これほどまでに立派な道路がついては、仮に沿線人口がこれほどまで減少しなくとも、鉄道の出番は皆無になっていたであろう。

 廃線跡に並行する国道に除雪ステーションがある脇に、幌加駅の跡がある。というような言い方をしなければならないほど、辺りに人家は全くなく、駅跡は白樺林の中に埋もれている。しかしここには旅客・貨物のホーム跡に加えて、レールも姿をさらけ出しており、雑草をかき分けると貨物側線が分かれていた分岐器もそのままである。つまり、バス代行時に早々と実質廃止されていた割には、建物関係の遺物を除く全てが放置されているのである。この構内構造は、この駅も原木積み出しで活躍していたことを物語る。

 特に、昭和29年の洞爺丸台風は、台風の名の由来となった青函連絡船にだけでなく、北海道全域に大変な被害、特に山林地帯にはおびただしい倒木被害をもたらした。この搬出処理のために、各地の鉄道や森林鉄道は空前の盛況となったが、この駅も例外でなかったらしい。もっとも、この反動で以降に搬出する森林資源が急減し、北海道の原木輸送や森林鉄道は全国より一足早く衰退することになるのだが。

 
幌加駅跡
白樺林に囲まれた幌加駅跡には旅客と  
貨物のプラットホーム跡とレールも残る。 
周りには人が住んでいた名残もない  

 幌加駅のバス代行化直前の1日の乗降客数はわずか2人、言い換えると利用者はわずか1人にまで減っていたようである。現在、駅跡のまわりには件の除雪ステーションを除けばなにもない。大自然に抱かれた平坦な白樺林の広がるこのあたりは、うららかな日差しに囲まれて、都会から近ければ格好の別荘地にでもなりそうな感覚に襲われるが、それも豪雪に見舞われる厳しい冬期間を忘れての全くの幻想に過ぎない。幌加地区で人の息吹が残っているのは、駅跡の少し北から西に入ったところにある幌加温泉に、それも数人だけとなっている。

 幌加の駅跡を過ぎると、これまで見てきたアーチ橋梁群の中でもひときわ大規模な第五音更川橋梁跡が、コンクリートアーチもそのままに姿を見せている(G地点)。そして線路跡は音更川、及びその支流と絡み合いながら、全くの無人地帯を遡ってゆき、終点の十勝三股に入る。

 残念ながら駅跡の諸施設は撤去されたようで、これといった跡は見あたらない。それどころか、集落があった名残さえほとんどないほどの広大な平地となっている。すでに士幌線の廃止直前の段階でも、人口はわずか2戸の6人だけだったというが、今では国道沿いのログハウスのような小綺麗な喫茶店だけが唯一の人の気配の感じられる建物である。

 その向かいには「士幌線代替バス車庫」とシャッターに大書きされたバス車庫がある。脇には待合室もあり、その扉に15時台のバスが廃止になった旨の張り紙がしてあったので、それではどれくらいの本数になったのだろうとバス停の時刻表を覗いてみると、朝7時台の1本だけであった。



■国鉄士幌線あとがき

 私は、士幌線がこれほど風光明媚な所や趣のあるところを走っていたとは知らなかった。そのため現役時代にも、帯広から広尾線なんかに(失礼)乗らないで、士幌線に乗れば良かったと後悔している程である。

 まあそれはともかくとして、全線を探訪していないのにくそ生意気なことを言うけれど、地形図を見る限り、訪問するならやはり清水谷以北の区間であろうことは明らかである。コンクリートアーチを主とする各橋梁群は、上士幌町による保存の方針が決まったものの、全部の保存は難しいであろうから、探訪するのなら早いに越したことはないと思われる。

 士幌線跡の最深部、糠平〜十勝三股間のバスは、前述のように僅か一日一往復にまで減じてしまった。国鉄からJRになる8日前に士幌線がバス転換された折には、鉄道時代(といってもバス代行だっだが)から0.5往復減の3.5往復だったのにと思うが、考えてみるとこの沿線人口の状況のなか、僅か1往復でも残っていることは、快挙なのかもしれない。いやもっと快挙なのは、利用者がおそらく数人であろうこの僅か1往復のバス路線のダイヤが、今でも全国版の時刻表に掲載されていることであろう。このことこそ、この地に鉄道が敷かれていたことの、大いなる証左なのかもしれない。

Last visited:May-2000 / Copyright 1996-2005 by Studio Class-C. All rights reserved.