さて、70キロ地点の先にある元仮乗降場の安別駅は、待合室と通信中継機室が残るだけで、ホームはない。元仮乗降場の飛行場前駅は、木造のホームと駅名標の枠が残っているが、かなり傷んできている。ところで、この「飛行場前」だが、その昔、この辺りには旧軍の「浅茅野飛行場」があった事からこの名称がついた。
ここではタコ部屋労働が行われ、朝鮮などの人達が強制的に働かされた。
地元のある方に貴重な時間を割いていただいて聞いた話だが、この飛行場前駅の脇にある広大な平地は、この強制労働の成果であるそうだ。本来ならここも滑走路になるはずだったらしいが、未完成のまま終わったそうだ。もちろん重機もない時代だから、人の手で土を運んで均していった訳だが、この作業は真冬でも除雪しながら行われたそうだ。
飛行場は、国道の左手にある農協を左折し、飛行場前駅のホームを右手に見ながら直進したところにあったそうだ。途中で渡る橋の右手に橋台があるが、これが飛行場へと続いていたそうだ。また、この付近には営門らしきコンクリート柱なども残っている。聞いた話によれば、初期は海軍が駐留して、末期は陸軍が駐留したそうだ。
その昔、この地で強制労働が行われ、その中には朝鮮人も含まれていたという歴史的事実を忘れてはならない。できれば、鉄道の跡地だけではなく、強制労働の行われた飛行場の跡地をご覧いただきたい。
さてさて、猿払駅跡は整地されて跡方もなくなっているが、駅前の様子は残っている。ここまで線路の敷地はサイクリングロードだったが、ここから先は道道1089号として敷地が転用されている。第4次調査時には、道道は芦野駅まで完成し、芦野から鬼志別まで工事が行われていた。
鬼志別駅の跡地はバスターミナルに転用されていたので、先を急ぐ。かつては石炭などの積み出しもあった小石駅も、何も残っていなかった。
小石地区は、かつてはいくつもの炭坑があり、パチンコ屋もある商店街を形成して活気にあふれていたが、商店が2件程度しかない今となっては信じられない。山腹に建てられた小学校も廃校となり、校舎と体育館が無残な姿をさらしている。小石駅からは藤田炭坑を始めとする炭坑へと向かう専用線があったが、何も残っておらず、線路周辺にあった炭住も原野に帰している。
さて、小石駅を出ると、列車は宗谷丘陵地帯を越えるべく、上り坂にさしかかっていた。この区間の線路工事は困難を極め、多数の犠牲者が続出した為、道道に慰霊碑が建てられていたそうだが、道道拡張工事によって撤去される事となったので、小石地区の開拓者として墓地に奉られる事となった。道道からは線路の様子を確認する事は困難だが、峠を越えた辺りで、眼下に蛇行する線路跡が確認できるはずだ。
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峠を越えたところにあった曲渕駅は、公園となっているだけで何も残っていない。沼川駅は駅名標と貨物ホームが残っている。樺岡駅は駅名標がバス停に移設されているだけで、あとは分岐器跡付近に鉄道標識が残っているだけだ。
樺岡駅を出た列車は、左に大きく曲がりながら国道238号沿いに進んで声問駅に向かっていた。声問駅周辺は、古びた商店以外は駅前の面影を感じさせるものはない。
列車は南稚内駅の3番乗り場から発着していたが、ホームの縁は崩され、乗り場の表示も平成07年02月以降に撤去されたらしく、第4次調査時には何もなかった。全長148km857mの天北線の道のりは、ここで終わっていた。
最後に、一個人の趣味に協力して下さった方々に感謝の意を込めて、ここに名前を挙げさせていただきます。
北海道開発局の皆様,中頓別町の皆様,字浅茅野在住の何某様を始めとする浜頓別町の皆様, 字小石の佐藤商店の皆様を始めとする猿払村の皆様,林駅長を始めとする南稚内駅の皆様,その他多数
この本文は、五月女様を始めとする知人各位のご指導と最新情報なしには完成はありえませんでした。
ここで改めて、知人各位に厚く御礼を申し上げます。
末筆になりましたが、この路線の建設工事で命を落とされた方、また、浅茅野飛行場建設工事の際に遠く朝鮮から連れてこられ、望郷の念にかられつつも志半ばにして命を落とされた方に深い哀悼の意を表したいと思います。
そして、列車の運行、除雪、保線などに携わった全ての関係者に敬意を表したいと思います。