皆さんはじめまして。私は昭和29年生まれの49才です。福井鉄道と鯖浦線とその2線の連絡線で囲まれた三角地の中で生まれ18才まで過ごしました。
 おふくろに聞いたことや実家にあった「水落史誌」などを参考に、私の覚えていることを足して報告します。

 鯖浦線は大正15年までに佐々生駅まで開通し昭和3年までに織田まで開通しました。鉄道の無かった明治の頃は、越前海岸で獲れた鮮魚は、人の背中や荷車にのせられ織田・西田中(四ヶ浦街道)を経由して鯖江に運ばれ、昼頃までに売りさばかれ帰りに日用品を買って夕方には四ヶ浦に着きました。その当時は、大変重労働だったのですが、鯖浦線開通後も浜から織田までは人の背中や荷車にのせられて運んでいたそうです。その後はバスを利用し、織田からは電車で運ばれていました。早朝の織田初の電車は魚売りの「ボテさん」(魚売りのおばちゃんのこと)で満員だったそうです。浜の女性のたくましさが随所に見られたとおふくろも言っていました。私の家にも20年以上「ボテさん」が来ていましたが、いつも決まったおばちゃんで他の人は見たことがありませんでした。きっと、ボテさんの中でお得意さんが決まっていたのでしょうね。

 この鯖浦線は、北陸本線鯖江駅へ乗り入れることが出来たので、大量の物資を鯖江駅で積み替えることなく、国鉄の貨車のままで織田・西田中へ運ばれたそうです。
 大正14年に開通した福武鉄道(今の福井鉄道)と鯖浦鉄道とは当時は別会社で、この水落付近での交差部分には上に福武鉄道の水落駅があり、下には鯖浦鉄道の神明駅がありました。福武鉄道にも現在、水落駅の次に神明駅があります。福武鉄道の神明駅は戦前は「中央駅」とか「兵営駅」と呼ばれていました。陸軍歩兵三十六連隊があったので駅名も軍事色の濃いものだったようです。

鯖浦鉄道水落駅

 右の古い写真は鯖浦鉄道の神明駅です。よく見ると電車の左上に福武鉄道の跨線橋が写っています。駅舎の後ろには福武鉄道の昔の水落駅があるはずです。
 水落駅は連絡線が出来たときに現在の位置に移動したらしく、私が物心付いた時には現在の場所にありました。その当時、国鉄鯖江駅から来た電車の何本かは今の野球場付近で分岐を使って後退し連絡線に入り水落駅から福井方面に向かっていたような気がします。織田から来た電車もほとんどが連絡線を通って水落駅に入っていたようです。

 さて本題の鯖浦線が現在の福井鉄道とどこで交差していたか報告します。
 冬広さんが「現在の水落駅の南にはそれらしい道路がある.それは国道417線(当時は国道8号線)と現在線をまとめてくぐるもので,先の野球場の北側の道路から自然に分かれていて,いかにもそれらしかった」と書かれていますが、この道は野球場の山手にある歩兵三十六連隊の陸軍墓地と、福井鉄道の東側にある旧国道を結んでいる道路で、鯖浦線の廃線敷きではありません。以前、「○○鉄道」の○号に南さんという人も、間違えて写真付きで紹介していました。

 野球場の北側の道路(鯖浦線の廃線敷き)に立って東を見ると道路が3本に分かれています。左側のカーブを描いている道路は、鯖浦線と福井鉄道の連絡線の廃線敷きです。国道の下をくぐって現在の水落駅につながっていました。真ん中の道は先ほど報告した道路です。実は、右側の道路が廃線敷きです。でも現在は埋め立てられて当時の面影はありません。その道を東にまっすぐ延して鯖江郵便局の北側付近で少し左にカーブし国道417線の下を通ると現在の福井鉄道と交わります。ここが交差位置ですがここもいまは面影がありません。

分岐

 鯖浦線は、野球場の北側から国道417線と現在の福井鉄道をくぐっていました。福井鉄道をくぐったところに鯖浦鉄道の神明駅(廃線時には「水落」に変わっていたかもしれない)があり、旧国道には踏切がありました。野球場北側からこの旧国道の踏切まで掘割のようになっていてそこを電車が走っていました。現在は野球場の北側から国道417線へ向かう廃線敷き跡の道路は上り勾配になっていますが、当時は掘割になっていたので旧国道踏切まで下り勾配になっていました。

 さて、「国鉄鯖江駅からどのようにして急斜面を駆け上がっていたか」ですが、国鉄鯖江駅から来た線路はカーブを描き盛土で崖を駆け上がっていました。掘割の土は旧国道の踏切から国鉄鯖江駅へ向かうこの線路の盛土に使われたと思われます。田んぼの中にカーブを描いた結構高い盛土がありそこを電車が走っていたのを覚えています。今は区画整理されているようでここも面影はありません。

地図

 先月、久しぶりに帰郷したので見てきましたが、交差付近も昔の駅も旧国道の踏み切りも盛土も昔をしのぶものはありませんでした。

盛土跡

 でもよく見ると一箇所だけありました。盛土を削ってできた公園から旧国道の方を見上げると盛土の形が確認できました。

 わたしも、「水落」を離れてすでに30年が過ぎています。当時あった掘割なども埋め立てられていて帰るたびに変わっていくふるさとを見ると年をとるはずだと痛感しています。

 地形的に説明しにくい場所なので、解らないところが多いと思います。連絡いただければ補足させてもらいます。