3. 廃線の状況

廃線跡、廃駅(乗降場)跡を以下に詳しく紹介します。なおレポートは歩行調査した方向で書きますので、湧網線としての方向がバラバラになっていることをあらかじめご了承ください。




3.1 中湧別─計呂地について
         中湧別─五鹿山(乗)─福島(乗)─芭露─志撫子(乗)─計呂地 
(歩行調査 H10.7.27 曇り)計呂地→芭露、中湧別周辺



画像2 画像3 画像4

 計呂地駅跡は交通公園となっています。駅舎は現役当時のまま残っており、旧構内にはC58 139と旧客が2両、簡易宿泊施設として置かれてあります。(画像2)(画像3)計呂地から志蕪子乗降場に向かっては緩やかな下りになっていて、湧網線跡は国道の林を挟んで東側を進んでいきます。坂を下りきったところに志撫子の集落があり、集落と国道の間の窪地に志撫子乗降場がありました。(画像4)ホームがあっただけなんだよ、と近くにいた人が教えてくれました。

画像5 画像6

 志撫子乗降場のあったところから国道の湖側、少し離れた位置に湧網線跡の築堤が現れます。サロマ湖へは地図には描かれない小川が何本か流れ込んでいて、築堤と小川の交差部の1か所に石橋が見られました(画像5)湧網線跡はしばらく進んで国道と離れ、月見ヶ浜沿いに進みます。廃線跡は道路の歩道スペースに吸収されますが、車窓がすばらしかったことは歩いていてもよくわかりました。(画像6)再び国道と合流した湧網線跡は、合流したのもつかの間、国道から離れていきますが、芭露川を越えるためのアプローチの築堤以外は何も確認できませんでした。

画像7 画像8

 芭露の集落に入り、上芭露からの道との交差点を折れると、道の行き止まりに芭露駅跡があります。(画像7)駅舎は無料宿泊所になっていて、そこにあるノートには今まで泊まった人のコメントがびっしりと書かれてありました。中には湧網線跡を全部歩いたという人のコメントもあり、少し参考になりました。その本屋の裏手にはホームとレールが残っています。(画像8)その雰囲気たるや、うわさに聞いていたとおり、今でも列車がやってきそうな雰囲気で、私が今まで廃線歩きをして出会った廃駅の中でもベスト1になりました。ちなみに30分はそこから動けませんでした。余談ですが、近くの美容室裏手の犬はうるさいです。

 湧網線跡は国道からかなり離れたところを進んでいましたが、今となっては畑や林の中に消えまったくわからない状況になっています。地図では芭露牧場の北端近くに切り通し跡が見られますが、芭露で聞いたところでは、テイネ川沿いの湿地帯が鉄道があったときよりも広がっているし、胸まで草がある状況だから人は入れないだろうということでした。

 福島乗降場及び五鹿山乗降場はバスからの車窓にての確認になりましたが、畑の作物の色の境あたりに鉄道があったことだけしかわかりませんでした。バスの車内で福島乗降場(福島バス停すぐ)のそばに住む方と話ができましたが、福島乗降場跡は今となってはまったくわからないと言っていました。それは五鹿山乗降場(東四線バス停すぐ)も同じだということです。湧網線跡は、地元の人でもそういわざるを得ないくらい自然に還ってしまっているということなのです。

画像9

 中湧別駅跡は道の駅中湧別になっています。名寄本線、湧別からの枝線、そして湧網線の集まる交通の要所だったこともあり、旧構内は道の駅として駐車スペースに困らない広さを持っています。旧構内の遠軽寄りにはホームの一部と車両が保存されています。(画像9)

画像10

 中湧別駅跡の北側、西へ名寄本線、東へ湧網線、そして湧別へ直進する線が分岐する、思い浮かべるだけでもすごい場所だったところですが、地図ではその分岐するカーブの跡がくっきりと現れていてとても期待していました。実際はどうだったかというと、まず湧別までの廃線跡が道路になり、分岐点に住宅地が造成されていました。(画像10)宅地造成中の地元の建設作業員の方達に聞いて分岐していたのはこの辺だろうというのがこの画像です。画像中央、まっすぐ延びる道が湧別への線路跡で、湧網線は右端の青い屋根の建物と住宅の間へと、名寄本線は交差点角の物置とその右に写る灰色の建物の間へと曲がっていました。

 湧網線跡は中湧別から芭露方向へ曲がりきって、線路沿いの道が登り坂になる手前でその道を横断していた、と先ほどの作業員の方に教えてもらったのでその場所まで行きましたが、再舗装跡からここだろうと想像する程度で自然に還りすぎていました。


3.2 計呂地─佐呂間について
              計呂地─浜床丹(乗)─床丹─若里(乗)─佐呂間 
(歩行調査 H10.7.27 曇り)佐呂間→床丹、計呂地



画像11

 佐呂間駅跡は半分が佐呂間バスターミナルとなり、半分が鉄道資料館を含む公園になっていて、車両(D51 565-スユニ50517-ヨ8017、DE10 1617)も保存されています。(画像11)鉄道資料館は鍵がかかっていて中には入れませんでしたが、外から見る限り、浜佐呂間-佐呂間間の資料がそろっていました。

画像12 画像13 画像14

 駅跡の裏手から佐呂間中学校の西端までは広い駐車場になっていますが、浜佐呂間へ向かう道路を渡ると線路幅の道路が現れます。(画像12)しかし、湧網線廃止後に建てられた佐呂間小学校の手前でその道は途絶えます。裏に回るとその校庭端から、胸まであって周りとは色が違う草の帯が続いているのがよくわかります。そんな廃線跡がわかる状況もすぐ途絶え、湧網線跡は畑の中に消えていきます。鉄道が通っていたところで作物が違うことが唯一の手がかりです。若里乗降場まではそういう状況がほとんどですが、一部バラストがはっきりと見えるところもあります。(画像13)また湧網線と計呂地へ向かう道路との交差部には大きな切り通しが見られますが、その跡もはっきりとわかります。(画像14)

画像15 画像16 画像17

 若里乗降場跡は集落からかなり離れた台地状の所にありますが、今となっては広い土地を残すのみです。(画像15)若里の集落から乗降場へ向かう道を西に見て、湧網線跡は築堤の上を進みます。(画像16)その築堤も若里九号道路のところで切れ、その先は畑の中へと消えていきます。そこから床丹駅跡の手前までは、畑の作物の色の違いから鉄道があったことを知るのみです。湧網線跡は床丹川を越え、計呂地へ向かう道路と交差しますが、川の方には何も残っていなく、道路に斜めに横切る再舗装した形跡がそれだとわかる程度でした。そこからすぐの所に床丹駅跡があります。代替バスの床丹バス停のところが駅への入り口になっていますが、残念ながら何も残っていませんでした。(画像17)

画像18

 若里を出ると湧網線跡は山裾沿いを計呂地の方に緩やかなカーブをとって進みますが、今となってはそのあとを判断するのは無理になっています。少し行くと国道238号との交差部分があり、そこははっきりとわかるようになっています。(画像18)国道から浜床丹乗降場へ向かう道はそのまま残っています。先ほど国道と交差した湧網線跡が東より現れますが、歩いてきた道との交差したところの少し奥にあったであろう浜床丹乗降場跡は、すでに自然に還っていました。

 湧網線はこの先、ほぼ等高線に沿って北に大回りをして計呂地に向かっていました。地図では切り通しの跡などが見られましたが、あまりに自然に還りすぎていて歩ける状況にはありません。計呂地の集落より少し戻って計呂地川を越えていたあたりに行きましたが、橋へアプローチする築堤が残るのみでした。


3.3 佐呂間─浜佐呂間について
       佐呂間─堺橋(乗)─興生沢(乗)─知来─紅葉橋(乗)─仁倉─浜佐呂間 
(歩行調査 H10.7.28 雨)知来→佐呂間



画像19

 知来バス停から少し入ったところに知来駅跡がありました。駅舎は知来ゲートボール会館として利用されていています。(画像19)ホーム側の柱はレールを曲げたものでできていました。知来駅跡のすぐ西側で湧網線は知来川を越えますが、佐呂間側には橋台が確認できました。そこから興生沢乗降場まで、湧網線は浜佐呂間-佐呂間の道路の南側を通っていました。そこには線路の幅だけ周りとは違った雑草が生え、その帯が道路に沿う状態が長い距離続きます。

画像20

 道路北側から東興生沢川が流れてくるあたりに興生沢乗降場がありましたが、今はやや広い窪地として残るのみです。(画像20)湧網線があった頃は興生沢乗降場のすぐ東を道路が曲がって横断するようになっていましたが、廃止されて道路がまっすぐとなり、交差跡はその下に埋もれたようです。湧網線跡はそこから道路北側を進みます。といっても周りと違う雑草の帯がそのように続くだけです。境橋乗降場手前の小川のところから廃線跡は浜佐呂間-佐呂間の道路の路線変更工事の中に消えていきました。

画像21

 境橋乗降場跡は牧場の倉庫としてかろうじて残っていました。そこから佐呂間別川を渡るアプローチの築堤がまだ残っています。(画像21)しかし上記の道路の路線変更工事というのは、道路の境橋の老朽化に伴う橋の架け替えで、新しい新境橋がその築堤の延長線上で基礎工事が行われていたので、上記の小川の所から佐呂間別川の西まで、この築堤もろとも新しい道路の下に消えてしまうのは時間の問題かもしれません。湧網線の橋の形跡は橋脚跡も含め何もありませんでした。

画像22

 そこから東の集落を通り、再度佐呂間別川を越すところまで、湧網線は道路北側の住宅の背後の築堤の上を進んでいたのですが、今はその築堤は跡形もなく切り崩され、農地の一部として転用されています。再度佐呂間別川を越すところの永代橋の北側にも橋脚跡はまったく残っていません。しかし、湧網線跡は突然現れます。川の西には木材加工工場があり、その工場を貫くようにスペースが空いていますが、それが湧網線跡です。(画像22)その工場を抜けると佐呂間駅跡(佐呂間バスターミナル)はすぐ横です。

 知来-仁倉-浜佐呂間間はバスからの車窓にての確認になりました。バスが通る道路が仁倉峠を越えるところで、湧網線はその峠をさけるようにちょうど南側の崖下、佐呂間別川の河原を行っていました。紅葉橋乗降場はそんな崖下の河原近くにありましたので、おそらく自然に還っていると思われます。

 仁倉駅跡は仁倉バス停の少し奥にあったのですが、鉄道があった当時、駅の北側に7軒はあった家が今では全くなくなり、駅があったところを含め広い畑として一面を一望できるのみになっていました。ただ、そこから少し行ったところで仁倉川を渡るため、そのアプローチの築堤は確認することができました。


3.4 浜佐呂間─常呂について
          浜佐呂間─北見富丘─東富丘(乗)─北見共立─土佐(乗)─常呂 
(歩行調査 H10.7.28 雨のち霧)浜佐呂間→常呂



画像23

 浜佐呂間の駅跡は佐呂間からの道路と計呂地からの国道238号線の合流点の一本奥まったところにあります。佐呂間町営バスの運転手の方に場所と駅舎の位置を教えていただきましたが、今は幼稚園とスポーツ広場となっています。(画像23)ちょうど左から来る道路と建物の境、緑地帯のあたりに駅舎があったようです。

画像24

 浜佐呂間から国道は常呂の方へほぼ直線的に進むのに対し、湧網線はそれを斜辺とする三角形の二辺を進むように大回りをして常呂に向かいます。浜佐呂間を出ると湧網線跡はすぐに国道を西に見て分かれて、畑の中へと消えていきます。 畑の作物の色の境目になっていたり、一部は畑に出入りするための農業用道路となっています。(画像24)湧網線跡は富丘の台地の裾を曲線で大きくまわっていて、台地の上から下を見ると線路があったところを境に、北側が林で南側が草地(富丘の台地の北側斜面)となっているのがよくわかりました。

画像25

 北見富丘駅跡はそんな富丘の台地を南北に走る西七線道路の台地の下にあります。(画像25)ちなみにそこに写る建物は駅舎ではありません。(あとで常呂バスターミナルにある画像で確認しました)ホームの跡は一段高くなっている辛かろうじでわかりましたが、風化して平らになるのも時間の問題だと思いました。

 ここから東富岡乗降場に向かってもまた同じような風景になります。富丘の台地は先ほどの西七線道路を頂点とする台地と西四線から西五線を頂上とする台地の二つがあり、道はかなりのアップダウンを強いられるのですが、湧網線跡はその北側を切り通しなどで勾配をかわしながら進んでいきます。その台地を越えてすぐの西四線道路の先でライトコロ川を越えるのですが、橋脚の跡も、湧網線がどこを通っていたさえもわからなくなっていました。

画像26 画像27

 東富岡乗降場は西三線道路と十二号道路の交差する少し北側にありましたが、乗降場のあった道路西側は本当に鉄道が通っていたかと疑うくらいきれいに整地された畑になっています。が、うれしいことに道路東側には道路と斜めに交差していた湧網線跡と、鉄道が通っていたために防風林(かな?)がとぎれている場所が確認できます。(画像26)防風林の向こう側、西一線道路と十一号道路が交差するところに大江牧場というのがあり、その南側に湧網線の築堤跡が確認できますが、そこから先ほどの防風林の切れ目を見ると方向がぴったり合います。(画像27)大江牧場の東で今まで東西に走っていた湧網線は、常呂に向かって北へ進行方向を変えます。

画像28

 ちょうど曲がり終えた所に共立の集落があり、常呂-北見を結ぶ道路の西側に北見共立駅跡の広い敷地が広がっています。(画像28)駅舎と見間違えるような建物がありますが、実際はなんの関係もなく、ところどころに枕木で作られた柵と、駅前の自転車置き場だけが鉄道があったことを教えてくれました。ここから常呂までは、基線道路の約250メートル西側を平行に進みます。が、湧網線跡は再び畑の中に消え、作物の境だけがそれを教えてくれます。そんなわけで土佐乗降場跡もまったくわかりませんでした。

画像29 画像30

 再び湧網線跡がわかるようになるのは常呂市街地南端の国道238号線の所になります。湧網線跡は野球場の東を通り、常呂駅の方に東へ進路を変えます。(画像29)その先、国道の旧道と交わるところの常呂栄町で、湧網線跡は網走までのサイクリングロードへと変わります。(画像30)そこが常呂側の起点になっています。サイクリングロードは曲がりながら馬鈴薯保存倉庫の北側を通り、常呂駅跡(常呂バスターミナル)へと続いていきます。


3.5 常呂─卯原内について
          常呂─常呂港(乗)─能取─中能取(乗)─北見平和─卯原内 
(歩行調査 H10.7.29 曇り時々晴れ)卯原内→平和、能取→常呂



画像31

 卯原内駅の跡は鉄道資料館になっており、旧構内には車両(49643-オハ47 508)が保存されています。(画像31)鉄道資料館には卯原内駅の資料を始め、制服などが展示されています。主に網走-卯原内間の資料がそろっています。そこにあった記念乗車券より卯原内駅はその字の通り、卯年(廃止年の1987、1975など)にはもてはやされたことがよくわかりました。また、外にあるSLの49643は元は浜網走駅にあったものをここに移設したそうです。なお、鉄道資料館はモラルのない人により荒らされたこともあるので、鍵がかかっていることもあります。そんな場合は、3軒ほど網走側にある坂上電器商会の方にお願いしてください。いくらマニアとはいえ、展示してあるものを持ち帰り、自分のものにしようという馬鹿な考えは起こさないでください。

画像32

 卯原内から北見平和間は東に能取湖、西に林、その奥の一段高いところを国道が走るという光景が長く続きます。やがて湖側に防風林が立つようになり、西側に集落が見えるようになると北見平和駅跡に着きます。(画像32)駅舎などは何もなく、国道から駅に向かう道(ちょうど木のある所)だけが駅の場所を教えてくれました。しかし、普通の人なら見過ごしてしまいそうな状況でした。

 その先、北見平和-能取間は北見平和までの光景とまったくと言っていいほど同じような光景が続きます。中能取乗降場跡は完全に見失いました。目印がなく、自然に還りすぎていたためわかりませんでした。その先、能取駅手前で、今まで国道の西の能取湖側を走っていた湧網線が東側に横断するのですが、その場所はサイクリングロードの駐輪場になっていて、サイクリングロードの交差部分は、国道の下をくぐるようになっていました。踏切跡は全くなくなっていました。

画像33

 能取駅跡は能取バス停の南側、旧郵便局の建物横の道路の突き当たりにありました。駅舎はありませんでしたがホームが残っており、その横に旧客(スハフ42 510)が置かれてありました。(画像33)駅舎があったと思われる場所はゲートボール場として使われていました。能取を出ると所に向かって緩やかに上りになります。能取湖と別れ、西にポント沼を見ながら勾配を上っていきます。再度国道と交差し、北からオホーツク海、湧網線、国道238号線となるのですが、サイクリングロードの交差部分は能取の手前と同じく、国道の下をくぐるようになっていて整地され、踏切跡は全くなくなっていました。ただ、国道の路線変更は行われていないため、今の地図を見ると、湧網線があったときと同じようにポント沼をやけに大きくまわり、S字カーブをとって常呂へ向かう不思議なルートを取っているのがわかると思います。

 国道と交差してからは緩やかな下りになります。その坂を下りきると北側に常呂漁港が見えてきますが、そこでサイクリングロードは、湧網線跡に対し斜めに方向を変えて国道の方へ向かいます。湧網線跡のサイクリングロードがこのまま自然な流れで進むと、常呂漁業協同組合の敷地を突っ切るような形になるのです。漁協は4段ある階段状の土地に立っていて、海側から1段目が水産加工場、2段目が駐車場、3段目が漁協の建物、4段目が国道238号となっています。もうおわかりの通り、湧網線は2段目の所を通っていました。その西隣に老人ホームがありますが、ちょうど湧網線跡はその裏手を通り常呂川に向かいます。

画像34

 漁協の所から常呂川までの間は私有地、及び自然に還っていて跡をたどることはできません。常呂川橋梁の跡ですが、東の能取側には何も残っていません。しかし、西の常呂側には川の中に丸い橋脚の根元の跡と、橋へのアプローチの築堤先端に国鉄清算事業団の看板が残っていました。(画像34)そしてまたサイクリングロードが忽然と現れ、直進したところに常呂駅跡(常呂バスターミナル)に着きます。

 常呂バスターミナルの2階は鉄道資料館になっています。ここは主に能取-北見富丘間の資料がそろっています。訪れる人が少ないためか、普段は鎖で上に上がれないようになっていますが、バス乗車券発行所の方に見たい旨を伝えると上がらせてもらえます。


3.6 卯原内─網走について
            卯原内─二見中央(乗)─二見ヶ岡─大曲(乗)─網走 
(歩行調査 H10.7.27 曇り時々晴れ)大曲→卯原内



画像35

 大曲乗降場は石北本線と湧網線の分岐点にあり、そこから歩くことにしました。大曲乗降場跡は大曲郵便局の裏手にありました。(画像35)大曲郵便局の方に場所を教えていただきましたが、ちょうどその場所には、大曲から旧浜網走駅(貨物)の南を通り、網走駅の南を通ってその先で合流する国道39号線のバイパスが完成しており、「確かその土手の下あたりなんだよ」ということだけしかわからなくなっていました。

 その先大曲橋手前までは新興の団地の中に湧網線跡は消えてしまいましたが、橋の手前に大曲サイクリングロード駐車場があり、そこから上記の常呂町までの湧網線跡を行くサイクリングロードが始まります。駐車場内には湧網線があったことを示す碑が立っています。そのすぐ先、網走川を越える大曲橋は下をのぞき込んでみましたが、残念ながら湧網線の流用ではありませんでした。

 この先常呂までの間、小川を越えたりする所に多くの橋が見られますが、この大曲橋をはじめとする大小の橋は、その多くを下まで回り込んでみてみた限り、橋脚、橋台は新しく作り替えられていますし、橋桁には平成に入って造られたというプレートがしっかりと留められていたりと、湧網線の流用であるものはいっさいありませんでした。

 サイクリングロードはその先、忠実に国道の一段下の湧網線跡をたどっていきます。レール幅よりも広い道がしばらくは国道よりも網走湖に近い南側、景色の良いところを進みます。湧網線が国道の北側に横断するところで、サイクリングロードは、網走湖を一望する湖眺橋として国道の上をまたいでいます。ちょうどその真下にあったであろう踏切の跡は、近くまで行ってみましたが何もわからなくなっていました。

画像36

 ここから湧網線は二見ヶ岡に向けて文字どおり勾配を登っていきます。橋も架け替えられているし、サイクリングロードの曲がり具合などのシチュエーションしか楽しむものがないなぁと思っていたのですが、その勾配の途中、北側の斜面の土砂止め用コンクリート壁に埋め込まれているプレートに「旭川鉄道管理局施設部」の文字を見つけたときは、少しうれしかったです。(画像36)その周辺には土砂止め、及び落石防止用の柵として枕木が多く見られました。

画像37

 上り坂は長い距離続きますが、景色が開けてその坂も下りに変わる手前の所に二見ヶ岡駅がありました。駅前の建物は当時の場所のままでしたが、駅に関するものは何も残っていませんでした。(画像37)湧網線跡の北側に広がる二見ヶ岡農場は、網走刑務所の労役のための場所だったところで、画像1の中で網走とこの二見ヶ岡に電報取り扱いの印があるのはそのためです。(脱走犯のため?)

画像38

 ここから二見中央乗降場までは長い下りになります。坂を下りきったところに二見川が流れていますが、国道がまた峠越えのため坂を上るのに対し、湧網線跡はその峠を能取湖側にかわして進みます。その国道との分岐点付近に二見中央乗降場がありましたが今までの調査と同じく何も残っていません。(画像38)

 ここから卯原内まで湧網線跡のサイクリングロードは、ほぼ直線的に、そして横の国道のアップダウンをよそになだらかに進んでいきます。道の両側には防風林がそびえたち、木々の間から能取湖の風景がかいま見られます。しばらく歩くと卯原内の集落に入り、卯原内川を越えると卯原内駅跡が見えます。


3.7 まとめ


 廃線跡の状況ですが、湧網東線として開業した部分と湧網西線として開業した部分では、その雰囲気がまったく異なりました。各種ガイドブックに紹介されているように、湧網東線の大曲乗降場跡から常呂駅跡までの廃線跡はそっくりそのままサイクリングロードになっていて跡をたどることは容易です。残る常呂─浜佐呂間間と湧網西線の部分ですが、10年たった今となってはまったくわからなくなっているところがほとんどでした。

 やっぱりと言うべきか、北海道の自然というのは成長が早く感じられます。特に湧網線として最後に開通した常呂─浜佐呂間─佐呂間間は、工事期間に反比例するかのごとく自然に還るのがとても早く感じられました。

 湧網線には16の駅と14の乗降場がありました。 その駅跡の状況ですが、現在バスターミナルや交通公園として跡があるのは駅跡で、乗降場跡はホームが1面あっただけの構造だったこともあり、地元の人に聞かないとどこにあったのすらもわからない状況になっています。駅舎が残っていたのは、佐呂間、計呂地、芭露で、 ホームやレールが残っていたところは、卯原内、能取、(佐呂間)、(計呂地)、(芭露)、中湧別。 鉄道資料館として残っていたのは、卯原内、常呂、(佐呂間)、(中湧別)でした。北海道の独特のシステムとして設けられていた乗降場跡は、大半が自然に還っていて不明な場所が多かったです。