■沿革

 新潟県内の私設鉄道では、魚沼鉄道(のちの国鉄魚沼線)、越後鉄道(現JR越後線)に次ぐ歴史を持った鉄道で、大正4年、長岡鉄道の手により与板〜寺泊間を、さらに翌年、西長岡〜与板間を開業したことに始まる。大正10年には来迎寺〜西長岡間をも開通させ、信濃川西岸のなかでも官設鉄道の恩恵を直接享受できなかった町々を結ぶ鉄道が、ここに出来上がった。ただ、西長岡から信濃川に架橋して、東岸の長岡中心部に乗り入れる構想は、資金的な問題から実現せず、このことがこの鉄道の旅客輸送を早くから衰退させる主因となった。

 昭和25年に、のちに首相となった田中角栄が長岡鉄道の社長に就任した。その翌年には、西長岡〜寺泊間を、翌々年に来迎寺〜西長岡間を電化しているが、これは石炭や燃料価格の高騰を受けて、全国の中小私鉄がこぞって電化に走った時期と一致する。この時は、直流750ボルトによる電化であったが、来迎寺で接続する国鉄信越本線が電化された昭和44年には、信越線と同じ直流1500ボルトに昇圧されている。

 昭和35年に中越自動車と栃尾電鉄を合併して、その名を越後交通と改め、長岡地区を地盤とする公共交通会社としての地位を確立した会社は、昭和36年の7月、寺泊への海水浴客誘致のために、大河津〜寺泊新道間で、国鉄越後線からの気動車乗り入れを始めた。

 ところが、その翌月に2回襲った集中豪雨と、9月の第2室戸台風によって、長岡線は甚大な被害をこうむることになる。特に与板町地内では土砂崩壊のため、1ヶ月もの間、運休せざるを得ないほどであったし、寺泊新道〜寺泊間も、10月に休止扱いとなり、結局昭和41年にはそのまま廃止されている。

 その後、モータリゼーションの発達による旅客の減少を受けて、鉄路は先端部から剥がされていく。昭和48年に大河津〜寺泊(旧寺泊新道)間を廃止したが、寺泊と佐渡島の赤泊とを結ぶ、その名も「両泊航路」が、長らくの休止からこの年に復活したのは、長岡線にとっては皮肉といえた。この鉄道が、すでに佐渡連絡の一端を担っていなかったことを、如実に表している出来事であった。

与板町内の廃線跡1
架線柱まで残っている 
与板町内の廃線跡 

 一方、南部の来迎寺〜西長岡間についても、昭和45年の輸送密度が66(!)であったほど旅客の利用は少なく、昭和47年に旅客扱いを廃している。このように、全般的に旅客輸送はあまりさえることなく終わったのだが、後年の越後交通長岡線の真価は、貨物輸送によって高まることとなる。

 昭和35年に、西長岡の北方に日産化学工業の工場が進出し、1.5キロに及ぶ構内側線を敷設した頃から、西長岡付近の沿線に工場の立地が目立ち始めた。各工場に引込線を敷設した長岡線は、昭和30年代後半から昭和40年代にかけて、貨物輸送量が飛躍的に増大していった。これは、同時期に貨物の取扱量を大きく減らしたケースが大半である他の鉄道とは、一線を画していた。

 結局、昭和50年に旅客営業を廃した後も、貨物専業の鉄道として、西長岡〜越後関原間が平成5年まで、来迎寺〜西長岡間は平成7年まで生き永らえたのは、積雪地帯における冬季の輸送問題が、鉄道利用を促した面もあったためという。

 この越後交通長岡線(正式には西長岡を基点とするそれぞれ来迎寺線と寺泊線であるが、ここではそれらを総称して長岡線と称する)の廃線跡は、平成に入ってから廃止された来迎寺〜西長岡〜越後関原間だけでなく、大河津(現寺泊)までは、ほぼ全線にわたって廃線敷が残るという、誠に歩き甲斐のある廃線跡である。

 そして、ほとんどの駅跡、特に越後関原〜大河津間では、廃線後四半世紀を経ても、殆どの駅跡にプラットホームまでもが残っているのは、まったく驚くべきことである。さらには、与板町内の廃線跡に至っては、レールのみならず、架線柱に至るまでもがそのまま眠っているという、全国的に見ても希有な存在であるのが、この廃線跡である。



■ガイド 来迎寺線 来迎寺〜西長岡間

 国鉄〜JR来迎寺の北側にあった越後交通の来迎寺駅は、貨物輸送のための側線など、広い構内を持ちあわせていた。しかし、その跡地は近年に宅地造成を受けたうえで分譲され、大きな変貌を遂げている。

 そんな来迎寺の構内を出ると、越後交通線の路盤跡は、JRの線路に並行することなしに、いきなり右へと曲がる築堤を見せている。

 あの高名な「魚沼産」でこそないものの、一帯はコメの一流ブランド、コシヒカリの大生産地である。この水田地帯を切り裂くように、廃線跡は延びている。

 線路は撤去されているが、路盤は途切れることなく、しかもいきなり小規模な橋桁が残る橋梁跡が連続したりして(A地点)、これから30キロ以上も続く旅路の序章としては上々の滑り出しである。

 これからも、いちいち取り上げるときりがないほど、橋梁跡は多見される。もっとも、中規模以上の橋梁跡は撤去されている。この付近では、渋海川を渡っていた橋梁がそれに相当する(B地点)。

 これから幾度となく出くわすことになる駅跡のトップバッターは、右カーブの途中にあった深沢の駅跡である。ここは、今でも緩やかにカーブするプラットホーム跡が残っているほか、駅前には倉庫状の建物があって、貨物取扱駅であった雰囲気をふんだんに残している。

 廃線跡は、国道404号線に並行するように北上していく。踏切跡のうち、廃止当時にアスファルト舗装されていたものは、道路工事を伴うのが面倒だったのか、C地点のように、道路との交差部だけレールが撤去されないままになっているケースが多い。

才津駅跡
左奥に見える、デンカセメントの設備 
への線路跡も生々しい才津駅跡 

 プラットホーム1面だけであった上富岡の駅跡のあたりは、すっかり雑草に覆われており、何が残っているのか、あるいは残っていないのかよく判らない。ただ、駅跡の少し手前の小さな踏切跡には「廃止 越後交通」と書かれたちっぽけな看板が建ったままであった(D地点)。

 才津は、貨物取扱駅として、旅客営業終了後も重要な位置を占めていた駅である。構内跡の線路は撤去されているが、駅の南側に接して立地するデンカセメントのプラント脇の積込線跡など、線路があった当時の残り香が未だに強く漂っている。

 このデンカセメントこそが、貨物専業となった末期の来迎寺線の主要顧客であり、このセメント鉄道輸送が取りやめられるに至って、来迎寺線の廃止が決まったほどであった。

 関越自動車道と国道8号線の結節点に近いためか、周囲に各種企業の物流センターや倉庫が集積している才津駅跡を出ても、廃線敷は途切れることなく続き、やがて整然と区画整理された、西長岡の閑静な住宅街に入っていく。線路敷跡は、鉄道現役当時からの低い鉄柵に守られながら、まっすぐに西長岡を目指す。道床も未だにジャリジャリしているが、それ以外のわずかな隙間を見つけては、小さな菜園が作られている。各地を旅すると、よくこのような光景に出くわすが、日本人は農耕民族なのだなあと感じる瞬間である。

踏切跡
踏切跡では、レールがそのまま 
になっていることが多い(E地点) 
市街地の中の廃線跡
西長岡付近では、住宅地に挟ま 
れて鉄道路盤跡が健在(F地点) 

 道路が並行していないところでは、周辺住民が使う抜け道として、人々の往来も少なくない廃線跡は、やがて右にカーブするようになり、左方から直進してきた寺泊線跡と合流する。合流地点には携帯電話会社のアンテナが建ってしまったが、ここから道路を渡ったところが、越後交通長岡線の本拠ともいえた、大きな構内を誇った西長岡の駅跡である。

 広大な構内跡は、越後交通の関連会社により、住宅地として整地・分譲されている。立地や周辺環境も悪くなく、なかなかよい宅地であると思うが、扇状に広がる敷地全体の形を除けば、多くの側線に貨車が並んでいた鉄道現役当時の様子は偲ぶべくもない。

  つづき

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