■沿革

 大正初期の軽便鉄道法の発布が引き金となって、大正年間には千葉県域にも様々な鉄道が計画・敷設された。この鉄道もそのうちのひとつで、房総半島東部の茂原から小湊鐵道の上総鶴舞を結ぶ、半島横断鉄道の一部として計画された鉄道であった。



 実は、茂原駅前〜長南(当時は庁南、正確な駅名は地蔵町)間には、すでに明治末期に営業を開始した、軌間609ミリの人車軌道(県営軌道庁南線)が存在していたのだが、乗合バスやトラックに押されて経営は芳しくなく、大正14年ごろにはすでに使用されなくなっていた。この人車軌道に代わる正式な鉄道という意味合いも含め、大正15年に免許を得たのがこの南総鉄道であった。ただ、長南以西のルートは、地勢的に線路が敷設しやすく、かつ沿線人口的にも有利と思われる牛久へ向けてではなく、鶴舞に向けて計画された。

 これは、鶴舞に有力な株主がいたためである。鶴舞の人々も資本参加して、大正14年に鶴舞に達した小湊鐵道の上総鶴舞駅は、旧大多喜街道沿いの鶴舞の集落から2キロも離れた位置に置かれたため、鶴舞の人々は南総鉄道を自分たちの連絡鉄道にする期待を込めていたのかもしれない。

 地元の小資本中心の会社であるために資金不足に陥って、工事はなかなか進展しなかったが、ようやく昭和5年になって、茂原から長南を経て笠森寺にいたる11.2キロメートルの鉄道が開業にいたった。もっとも、会社側が当て込んでいた、藻原寺や笠森観音への参拝客輸送は期待したほどではなかったため、昭和8年には奥野まで西伸した。しかし、かえってこの建設費が会社の重荷になってしまったほど、経営は苦しかった。

 そこで、当初取り扱っていなかった貨物輸送を始めたり、停留場を多数増設したり、あるいは笠森に小規模ながら遊園地や動物園を作るなど、利用増のための様々な施策を講じたものの、輸送成績はあまり伸びなかった。奥野に延伸した昭和8年には、鶴舞までとしていた免許を上総牛久までの免許に変更し、昭和13年(結果的には廃止の前年)には実際に測量を実施したりもしたのだが、時すでに遅く、とても延伸するほどの体力は持ち合わせていなかった。それどころか、従業員の給料が払えなかったり、蒸気機関車用の石炭が買えなくなる始末となり、結局、開業以来わずか8年半の短命に終わってしまった。

 なお鉄道廃止後、笠森自動車と改称した会社は、戦時統合などを経て、最終的には小湊鐵道バスに統合されている。



■ガイド 茂原〜豊栄間

 営業期間がわずか8年余であったのに加え、廃止後の長い年月の経過があるために、茂原の市街地区域では南総鉄道の痕跡など期待できないと思われがちであるが、1067ミリ軌間の鉄道が町並みの中にいったん残したキズ跡は、廃止後60年経った今も、完全には消えていない。

 JR茂原駅周辺の外房線は、高架複線となっている。そのため、国鉄駅に隣接し、廃止後には国鉄駅の貨物取扱スペースになっていたというの南総鉄道の駅跡や、しばらく外房線と線路を並べていた区間の面影はない。しかし、上総高師の駅跡のすぐ南西にあたる高師交差点の西隣にある、小さな交差点上(A地点)を通る廃線跡のラインは、卸売市場の敷地の中を突き抜けた後も、その近辺の家の向きが周りと微妙に異なるなど、かすかな痕跡を残している。

 これは、家並みの形の入った市街詳細地図を見ると明白であり、例えばインターネットですぐ見ることのできるの詳細地図を見ると、さきほどのA地点である、くるまやラーメンのある交差点から、左下方向へ923番地の表示があるところを通る、一本のラインがはっきりと読み取れる。これが、南総鉄道が通っていたルートである。

 そして地図を西南西へスクロールしていくと、このラインは、931番地の表示を通り、本茂原駅駅跡であると思われるスペースを経て、幼稚園の敷地を突っ切り、さらに281番地の表示、264番地の表示のあたりを通って、昌平橋の西詰付近に達している。さらに西へと廃線跡のラインは残っているのが明瞭であり、こういう優れた詳細地図により、机上で廃線跡を追うのも楽しいものである。もっとも、現地を実際に訪れてこの目で周りを見渡しても、もうひとつピンとはこないのだけれども・・・。

 最短200メートル(!)の距離で次々と置かれていた駅の跡については、通常であれば、駅前通りなどの周辺道路の様子や、周りの商店などの雰囲気によって、その場所をなんとなく推測できるものであるが、この鉄道跡に関しては、営業期間の短さや、あまり地元の人に利用されていなかったことが響いているのか、駅跡に漂っているはずの匂いがあまりにもない。

線路跡の道
小学生たちの登下校路となっている線路跡の道(C地点) 

 それなら地元の人に聞いてみようとしてみても、なんといっても60年以上も前に、それもほんのわずかの間だけ営業していた鉄道であったため、鉄道が存在していたことを知らない人が多いし、かなり年配の人を選んで尋ねたところで、本人は直接知らずに親などからの伝聞の形であったりして、あまりにも長い年月の経過を恨めしく感じる。そのため、プラットホーム1本だけの停留所であった昌平町はいうまでもなく、開設当初から置かれていた本茂原の駅跡でさえ、空き地になっているあたりであろうとしか、推測することはできない。

 昌平橋のすぐ北のあたりで豊田川を渡っていた橋梁跡も、河川改修によって影かたちもない。さらに川の西側の廃線跡も、もうひとつ判然としないのだが、西小学校の校庭の南縁あたり(B地点)から廃線跡のラインは復活し、それはやがて細い道路として形をあらわにするようになる。

 いかにも長閑な田舎道で、小学校の下校の児童に囲まれてのんびり歩くのは気持ちがいいけれども、国鉄篠山線跡と同じく、あたりは完全に区画整理がなされているので、しばらく進んだ後も引き続きこの道が厳密に廃線跡であり続けているかどうかは、実は定かでない。実際、南総鉄道の線路は、この道の突き当たりの数百メートル手前にあたるD地点のあたりで、左に曲がっていたはずである。

路盤跡
山裾に今も残る路盤跡(E地点) 
一宮川橋梁跡
一宮川西岸のコンクリ製橋台の跡(F地点) 

 ただ、たまたま場所が山裾であったために、このような区画整理を逃れることのできたE地点だけは、100メートルにも満たない短い間ではあるが、突如として路盤が姿を残している。

 さらに、空き地となっている上茂原の駅跡を過ぎ、県道13号線と交差した先にも、築堤がかろうじて残っている。この築堤は、一宮川にぶちあたるところで切れているが、対岸にはこの川を渡っていた橋梁跡が、奥野方のコンクリート橋台のみながらも、しっかりと残っているのがわかる(F地点)。

 残っている橋台から奥野方は、少しだけ築堤跡を見せた後、再び区画整理がなされた地帯に突入することによって、鉄道があった面影は微塵もなくなる。須田駅跡のあたりも、なにがしかの雰囲気でも残っていないかと目を凝らしたが、よく判らなかった。

路盤跡の畑
国道に寄り添うようにわずかに残る路盤跡は、
近所の住民の畑と化している(G地点) 

 次に南総鉄道の明白な痕跡を見るためには、いつのまにか廃線跡が道路化されている区間が終わった、G地点まで歩を進めなければならない。

 ここでは、民家の敷地の脇からヌッと顔を出し、並行国道に近づきながらガソリンスタンドの敷地にぶちあたるまでの、数十メートルほどの長さだけながら、明らかな築堤跡が残っている。築堤の頂部は、地元の人々によって勝手に削られて、小さな畑が耕作されており、様々な色や形の作物が植わる帯となっているのが面白い。

 そして、豊栄駅があったのは、JAとなっているところのようである。

  つづき

Last visited:Jan-2003 / Copyright 1996-2005 by Studio Class-C. All rights reserved.