■ガイド 豊栄〜奥野間

 豊栄駅跡のすぐ笠森方に、その名も三途川(さんずのかわ)という川がある。実は、この川を越えていた橋梁が、うっそうとした竹やぶの中に残っている(H地点)。周りの竹やぶがあまりに荒れているために、現場に行き着くまでにかなり難渋するものの、コンクリート製の両岸の橋台と一本の橋脚が、スパンもごく短く連続しているさまを目の当たりにすると、感動ものである。

三途川橋梁跡
鬱蒼とした竹やぶの中に残る三途川橋梁跡(H地点)。
写っているのは茂原方橋台と橋脚であるが、橋脚の 
上流側を尖らせているのはよく見られる手法である 

 三途川を渡ってから(それにしてもすごいフレーズ・・・)、しばらく国道409号線の南側を進んでいた廃線跡のラインは、千田の交差点のあたりで旧道が右に分岐すると、国道409号線の北側に移る。もっとも、一部築堤跡らしき土盛りがあるほかには、枕木を使用した柵がある程度で、それも南総のものかどうかわからないし、基本的にはこのあたりにはあまり跡は残っていない。

 そして、長南元宿駅跡付近からは、国道そのものが廃線跡となる。そのため、沿線の中で茂原に次ぐ大きな町であり、乗降が多かったであろう長南の駅跡も、残念ながら特筆すべきものはない。

 長南の駅跡から国道の左にとび出ていたはずの廃線跡のラインも、区画整理によって目立った跡はない。そして上総蔵持駅があったあたりから、再び国道409号線自身が廃線跡となる。この山越え区間では、鉄道時代にトンネルが2本あったが、廃線跡が国道となった今も、ともに拡幅改修されて使用されている(I・J地点)。このHPに取り上げたなかでは、北陸本線倶利伽羅旧線や、田口鉄道、そして一畑電鉄立久恵線尾道鉄道跡などに同様のケースが見られるが、ここも鉄道時代の面影はまったく失われている。しかし、これほどまでに不遇に終わった南総鉄道の切り開いたルートが、こういう形ででも活かされているのは、むしろ喜ばしいことなのかもしれない。

トンネル跡
2車線の国道トンネルに拡幅された 
南総鉄道のトンネル跡(J地点) 
笠森寺駅跡
笠森寺駅跡は、霊園が近くにある関連で 
あろうか、石材店の敷地となっている 

 道路の右側に少しスペースがあるところが、深沢の駅跡にあたるのかなあと思いながら、左に曲がっていく国道に身を任せると、あっけなく現在石材店となっている笠森寺の駅跡に着く。ここは、本社をはじめとする各部門が置かれていた南総鉄道の本拠であったが、付近は笠森寺こそあるものの、あまりに人家が少なく、まことに閑散としている。もっと先まで延伸するつもりであったにせよ、よくも軽便でもなかったまっとうな鉄道が、当初ここを終着に敷かれたものだと、逆に感心してしまう。

 そういえば、長南の町が長南の駅跡あたりから南に広がっていて、線路跡にほとんど接していなかったこともあって、ここまで歩いてきて、沿線にある程度の規模の集落を感じることは皆無であった。よくぞ、このような経路が鉄道のルートとして実行に移されたものだ感じるほどで、乗客が少なかったのも、ある意味当然の帰結であったのかもしれない。

 笠森寺から奥野までの間は、開業3年後に延伸した区間である。この区間でも、相変わらず国道そのものが廃線跡である。この区間にも2本のトンネルがあったが、笠森寺方のトンネル(K地点)は道路用として拡幅利用されている一方で、奥野方のトンネルは切通し化され、現存していない(L地点)。ちなみに鉄道時代は、建設資金に困窮していたのをあらわすかのように、トンネルの一部が素彫りのままであったという。

 そして、最後のトンネルのすぐ先が、終点の奥野の駅があった地点のはずである。という中途半端な言い回しになるのも、これまたあたりはあまりに何のアクセントもない、家屋もまばらなただの農村地帯の中間地点だからである。この場所が駅跡であるとわかっていながら、何の雰囲気も感じられないのは大変珍しいケースで、これまたよくぞこんな駅跡の特定さえできないほどの場所までの延伸をしたものだと、またまたうなってしまった次第である。



■南総鉄道あとがき

 廃線跡探訪が終わった後、奥野から上総牛久方面へ行くバスの本数が多くないこともあって、この鉄道が当初目指した鶴舞へ、さらに歩き通してみた。しかし、鶴舞の町に出るまではあまり人家もない。仮に当初のもくろみ通りに全線が開通していても、鶴舞の集落と上総鶴舞駅との間こそ、少々の利用はあったろうものの、全体的にはそれほど成績が向上しなかったであろうことは、容易に想像できた。

上総鶴舞駅
夜の上総鶴舞駅。無人駅と化し、すでに 
列車行き違い施設は使われていない 

 事実、途中に私を追い抜いていった長南から上総鶴舞駅を結ぶバスには、乗客はわずか一人しか乗っていなかった。停留所の時刻表を見ても、バスの本数は1日わずかに2本で土曜はうち1本が運休、さらに日曜に至っては運行自体がない。よくぞこんな路線を小湊鐵道バスも存続させているものであるが、もしかしたら、極限まで細くなり、おそらく採算も取れていないながらも、このバスルートが切れていないことこそが、小湊鐵道の一部となった南総鉄道の名残であるのかもしれない。

 なお、将来の電化に備えて作られた発電所の跡が脇にある、情緒豊かな上総鶴舞駅から五井まで、小湊鐵道にも乗車したが、さすがに首都圏の通勤圏になりつつあるだけあって、上総牛久以西はそこそこ日常の乗降があり、言われるほどこの鉄道の今後は暗くないような印象を持った。その一方で、上総牛久以南については、終点上総中野まで一閉塞区間に統合されているうえ、1日わずか5往復、しかもそのうち2往復は、終点のひとつ手前の養老渓谷折り返しとなっていることもあって、いすみ鉄道とつながっている意味は、失われているに等しい。

 驚かされたのは、まずひとつに上総牛久以西の駅は、ひとつを除いて列車行き違いが可能で、委託が多いにしろ駅員がいたこと、そして、私が乗車した列車の車掌が女性であったことである。JRや大手私鉄の一部では、もはや女性車掌は珍しくもないことだが、小湊鐵道のような中小私鉄にも女性車掌の登用があるのは、会社の「やる気」を感じさせ、好印象であった。

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