■沿革

 士幌線は、大正14年に音更線として帯広〜士幌間を開業、翌13年に上士幌までが開通した。さらに第2次線として十勝三股までの建設工事に着手し、昭和14年に全通した路線である。石北線の上川までの延長構想もあり、現に第2次線はその一部が具現化した形であったが、十勝三股からほんの少し先までだけで、工事はストップしてしまったようである。

 士幌線の辿ったルートは、十勝川の分流集中地帯や清水谷以北の山間部で数多くの河川を横切ったため、必然的に多くの橋梁が建設されることになった。特に清水谷以北の橋梁には、資材の調達のしやすさや大雪山国立公園となっている周辺景観への配慮もあって、コンクリートアーチ橋、あるいは両脇部がコンクリートアーチで中央部のみが鉄桁という構造の橋が多く築かれ、これが士幌線の最大の特徴ともいえた。

 山間部からの原木輸送や平野部からの農産物輸送など、北十勝開発の重要な一員として活躍する一方で、昭和31年6月に完成した糠平ダムにより、糠平付近の線路敷が湖底に沈むこととなったため、それに先立つ30年8月に清水谷〜幌加間を路線変更し、全長が2kmあまり延びた。このダム建設資材輸送でも士幌線は大いに賑わいを見せた。

 終点の十勝三股は、森林資源の豊富な周辺から切り出される材木の積み出し駅として活況を呈したが、国道開通と乱伐により鉄道貨物が衰退、さらにそれと歩を合わせるように最盛期に800人を越えた人口も著しく減少した結果、糠平〜十勝三股間の1日の利用者がわずか数人にまで落ち込んでしまった。昭和52年9月に災害のためにバス代行輸送を始め、これに味をしめたのか(?)、全国に先駆けて昭和53年12月から正式にこの区間の鉄道の運行を休止し、地元タクシー会社によるバス代行運転を開始した。この区間はわずか3駅にまたがるだけだが、延長が全体のおよそ4分の1にあたること、そしてそれまでも冬季運休になるほど豪雪地帯であったこともあって、バス代行化により士幌線全体の収支係数が3割も向上したという。

 国鉄再建の嵐の中、このような赤字線が存続することは到底許されず、全長が長いがゆえに第一次廃止対象線区にこそならなかったが、続く第二次廃止対象線区に選定された士幌線は昭和62年に全線廃止された。最盛期に3本を数えた帯広を起点とする鉄道は、すべて消え去った。



■ガイド 士幌駅跡、上士幌〜糠平間

士幌駅跡
駅舎や構内が保存されている士幌駅跡。最近訪れる  
人も少ないのか、雑草がのび放題になってきている  

 帯広平野内の線路跡は近隣の広尾線跡と同様、農地に戻るなどしてかなり消滅している。基本的に北海道の開拓地は、300間おきの碁盤の目状になった道路によって区切られた正方形のブロックを、6等分した区域(5町歩)を1戸分として、整然と区画整理された状態から始まっている。もっとも、その後の土地売買などでこの原則は少し崩されていたりするが、道路が基本の区割りのため、鉄道はほとんどの場合、個人所有の農地の中を横切ることになってしまう。

 そのため、鉄道が廃止になった時点で線路敷を買い戻し、大型農機の行き来の妨げになっている「無用の長物」を撤去して、本来の形、あるいはより大きな形の農地や牧草地に整形しようと思うのは、いわば当然のことであり、平野部の鉄道の痕跡が跡形なく消えてしまうケースが多くなるのである。

 そんな中で、目立っている痕跡といえば必然的に駅跡となる。まずは士幌駅跡で、2面のホームやレール、そして場内・出発の腕木信号機が残る構内と駅舎が、現役当時そのままの姿で保存されている。車両は少し地味な有蓋貨車と緩急車のみであるが、これらはちゃんと屋根の下に収められているし、加えて士幌のみならず中士幌の駅名標も並んでいる。また、周囲にはかなりの数の日通や農協の大倉庫が建ち並んでいて、ここが周辺の物資の大集散地であったことを今に伝えている。

 一方、第一次線の終着駅であった上士幌駅跡のほうは、青緑色に塗り直された旧型客車(なんでこんな色に塗るのでしょうね。この色に塗られたものは実は他にもあります・・・)が2両置かれた交通公園となっている。いったん更地に整備がなされたことにより、往時の面影はないに等しいが、戦後間もなくまでは、駅跡から帯広に向かう廃線跡より斜め方向である南西方へ、根室本線の新得に至る北海道拓殖鉄道の線路があった。

 次の清水谷の駅跡は、国道から駅前へ延びていた道路くらいしか名残が残っていない。ただ、士幌線はほぼ片勾配の線路であったため、この清水谷のほかにも萩ヶ岡、中士幌、駒場に、万一貨車が暴走した場合、それを本線から分岐させて受けとめるための側線が設備されていたという。

 いよいよ山が迫ってきて長らくお世話になった帯広平野と別れを告げるころからは、道床がまだ見える路盤跡がかなり残されている。特に屈曲する音更川にぶちあたるたびに架けられた数々の橋梁跡は、そのまま残されていたり、鉄製の橋桁部分は撤去されてもその両脇のコンクリートアーチが残されているものが多い。この中でも並行国道から気軽に見ることができるからか、よく紹介されるのが、元小屋ダムの上流部にあった第三音更川橋梁である(A地点)。

第三音更川橋梁跡
雨上がりの下小屋ダムの貯めた湖に第三  
音更川橋梁のアーチが映える(A地点)  

 このようなコンクリートアーチ橋は既述のように士幌線特有のものであるが、昭和62年の廃線後、老巧化が進んでいるため、国鉄清算事業団の手で順次撤去が進められていた。近代産業遺産としても貴重なこれらの橋梁群の保存を求める声が、かねてから町の内外から起きていたのだが、このほど地元の上士幌町が清算事業団から33の橋と1つのトンネルを買い取ることを決定し、貴重な産業遺産が守られる方向になったのは、非常に明るいニュースである。

 実際は、橋梁などの取得費より、その撤去費として清算事業団から受け取る金額がかなり上回るため、この資金をもとに、産業遺産価値が高い約10基の橋梁を中心に保存し、観光資源として第二の人生を歩ませるのだという。

 せいぜい築30年程度しか経っていない山陽新幹線のトンネルや高架橋で、コンクリート落下事故が頻発した例を持ち出すまでもなく、これらの古い構造物の保守管理は多大な手間と膨大な費用がかかるものと思われるが、それを覚悟しての上士幌町の英断には拍手を送りたいと思うし、是非これらの橋梁群が幸福な余生を送ることを願って止まない。現にこの第三音更川橋梁にも、立入禁止と書かれた上士幌町の真新しい看板が建っており、思わずニンマリとしてしまう。

 さて、黒石平の駅は、この第三音更川橋梁のすぐ手前にあった。今では国道273号線から駅に降りていた階段が、半ば崩れかけていることしか痕跡はないが、ここは下り(糠平方面行き)列車しか止まらなかった駅である。上り(帯広方面行き)列車は、その先の第三音更川橋梁を渡ってカーブを曲がったところにあった、電力所前という仮乗降場に停車していた。

 こんなおかしなことになっていたのは、昭和31年の黒石平駅の開設後、さらなる住民の請願で、昭和38年に集落のすぐ横に電力所前仮乗降場が出来たものの、この電力所前が1000分の25という急勾配の中途にあって、発車の時に上り急勾配となってしまう下り列車を止めることが出来なかったためらしい。

 このことは道内時刻表には正しく記載されていたが、基本的に仮乗降場を記載しない全国版の時刻表には、黒石平にすべての列車が止まるかのごとく書かれていた。両駅は近いし(といっても1キロ離れているが)、利用者も地元民以外殆ど考えられないから影響ないとの判断であろうが、正確無比と思われている時刻表にもこんなスキマが残されているというのは面白いことである。

 電力所前は、まさに糠平湖との標高差を利用した糠平水力発電所に勤務していた人たちが住む集落があったところで、集落跡の脇に立つ「黒石平の碑」によると、糠平ダムの建設が始まった頃である昭和27年から発電所が無人化される昭和53年まで、この地に職員とその家族が住んでいたのだという。現在は平坦な区画に短い雑草の生える、まったくの無人地帯であって、遅咲きの桜が咲く脇の公園にあるブランコが寂しく風に揺られている。仮乗降場は集落の一番奥の、林道が山に入り始めるところにあったが、前述のように1000分の25の急勾配の最中であるので、全てが撤去されている今では全くそのようなものがあったようには見えない。

 その集落跡をすり抜けた廃線跡は、4キロあまりにわたる1000分の25の勾配により高度を稼ぎながら、数々のトンネルにより糠平湖畔を目指すが、士幌線跡のトンネルは全て蓋がなされていて、通行することはできない。そのため、国道から防雪設備を備えた廃線跡を見上げるしか手はないが、この付近は西側の山腹に糠平ダムによる付け替え線跡、下側の谷にその線路付け替えまで使われていたルートの旧第四音更川橋梁跡を見ることができる、「一粒で二度おいしい」場所となっている。

第4糠平トンネル跡
道路橋の下、B地点にひっそりと眠る第4糠平ト  
ンネル十勝三股口。残念ながらコンクリートにより  
塞がれている(第5糠平トンネル坑門上から撮影)  
不二川橋梁跡
糠平湖南岸の不二川橋梁跡(C地点・手前に  
見える橋は旧国道)この橋梁は、ダム工事に  
伴う付け替え線区間なので鉄製の橋桁である  

 士幌線がようやく糠平湖岸に出る地点である、全長511メートルの第4糠平トンネルの十勝三股口は、国道が長いトンネルによって糠平湖畔にでてすぐの橋梁の下に、続く第5糠平トンネルの帯広口と対向して、息をひそめているかのように静かに佇んでいる(B地点)。ここからは、湖水を満々と貯めた糠平湖の素晴らしい景色を右手に見ながら西進していた区間で、不二川が刻んだ谷にかかる所では、このあたりの士幌線では珍しい、鉄製の橋桁をもった橋梁が残っている(C地点)。

 10年以上もの間、実質的な終着駅となっていた糠平駅跡は、右カーブしていた構内の名残は消え失せて、残っているのは上り下りの両出発腕木信号機だけである。貨物列車のおしりについていた車掌車が、1両だけぽつんと保存されているようながらんとした雰囲気を好んでいるのか、野生の鹿の親子が私を迎えてくれた。一角には上士幌町鉄道資料館なるものが建っていて、この中には、士幌線現役当時に列車の運転台から撮影されたビデオがあり、往時の風景を今も楽しむことができるようになっている。

 温泉街を中心とする糠平の集落は昔からこのあたりにあったというが、十勝三股を目指して最短ルートで敷かれた当初の糠平駅跡は、湖底のど真ん中に没しているはずである。

  つづき

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