上音威子府駅 |
音威子府駅〜上音威子府駅 |
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かつての宗谷本線であり、急行天北が走っていた天北線は、音威子府駅から発着していた。以前はここに機関区が併設されていて、構内は活気にあふれていたそうだが、広大な空地からは何も感じ取れない。また、以前は駅前に音威子府産の木材を利用したトーテムポールがあったが、倒壊した為に撤去されたそうだ。
音威子府駅を出ると、列車は宗谷本線と並走しながら小さな沢を渡っていた。この小橋梁にはまだガーダーが残っていた。列車は右に曲がりながら宗谷本線と別れて、音威子府川沿いに北上していた。
分岐してまもなく、列車は音威子府川に架けられた第1音威子府川橋梁を渡っていたが、すでに撤去されており、橋脚の基礎だけが水面下に見えるだけだ。この辺りは牧草地で、線路の左側を並走している国道275号の奥には、サイロが点在している。
線路は何回か音威子府川の支流を渡っていたが、桁はほとんど全て撤去されている。途中で、線路脇に作業員の慰霊碑を発見した。つるはしか何かをかたどった小さなモニュメントである。
さて、木々の間を通り抜けて、第2音威子府川橋梁(撤去済)を渡るとまもなく、左手に上音威子府駅があった。駅舎は農機具の倉庫となっている。原形をとどめているのはよいが、唯一、
この落書きには怒りを覚えた。
落書きという手段で訴えるのは卑劣だ。即刻、消してもらいたい。
上音威子府駅を過ぎると、谷間は狭くなってくる。列車はかつてこの辺りから天北峠越えに入っていた。天北川に架けられた嘉平川橋梁には、ガーダーが残っていた。
列車は10キロ地点を過ぎる頃に国道に架けられた「上音威子府跨線橋」をくぐり、まもなく天北線で唯一の天北トンネルに突入していた。このトンネル工事は難航し、何度となく崩壊した事が伝えられている。
天北トンネルを抜けた辺りには天北栄仮乗降場があったが、正確な位置は不明である。かつての小頓別駅の敷地は現在、バスターミナルになっているが、小頓別郵便局の前に、駅名標が移設されている。また、上頓別駅は現在、地元の方が手入れをしており、簡易宿泊所として機能している。
列車はかつて、この辺りから頓別川沿いにオホーツク海へと下り、頓別川に架けられた第1頓別川橋梁を渡っていたが、撤去された。元仮乗降場だった恵野駅付近の線路の敷地は町道上頓別側道線となっており、また、恵野駅は残っていない。
列車はかつて、この先で頓別川を2回渡っていたが、第2・第3頓別川橋梁も撤去された。道の駅となった敏音知駅にはモニュメントがあるが無視して先に進む。第4〜第6頓別川橋梁や元仮乗降場だった周麿駅などは調査していないが、どうやらないようだ。
松音知駅は、初代の駅舎の基礎が残っている。その他の様子については、ここではあえて掲載しない事にする。40キロ地点の先にあった中頓別駅はバスターミナルになったが、周囲はいかにも駅があったという雰囲気がただよう。
さて、中頓別の隣にあった寿仮乗降場は完全に消滅してしまっているが、一己内川に架かる葉蘭川橋梁は残っていた。鬼河原川に架かっていた鬼河原川橋梁は残っているが、第8頓別川橋梁は跡方もない。ここから浜頓別付近まで調査していない為、第9、第10頓別川橋梁や元仮乗降所の常盤駅などの現在の様子はわからないが、頓別川に架かっていた橋梁は国道から確認できなかったので、撤去されたものと思われる。ただ、国道の右手に何箇所か頓別川の支流の橋梁を確認できた。
さてさて、60キロ地点の先にあった、興浜北線との接続駅であった浜頓別駅は近代的なバスターミナルビルになっている。駅周辺一帯が再開発事業で整備されており、全く鉄道があった頃の様子はうかがえない。クッチャロ湖付近から猿払まで、線路の敷地はサイクリングロードに転用されている。
クッチャロ湖に架かっていた屈斜路川橋梁の手前には、かつて北頓別仮乗降場があったらしいが、JRになる前にすでになくなっていたので、今となっては場所がわからない。屈斜路川橋梁は、アスファルトが敷かれて欄干が新設されたものの、桁と橋脚などは鉄道時代のままだ。
※待合室は撮影するに忍びない状態でした) |
林の間を抜けるとかつては山軽駅があった。サイクリングロードの休憩所という名目で待合室とホームなどが残されてはいるものの、実際には荒廃が著しく、休憩所として機能していない。
この駅の保存状態は、北海道内の旧国鉄(JR)廃止路線の中で最低クラスだと言えよう。